へちま薬師日誌

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2017年 09月 11日

私説法然伝32

『私説法然伝』(32)極楽への道⑦

 先月号では「比叡山延暦寺にはじまった念佛の流れから生まれでた空也上人」について書きました。今月はその続きになります。

【空也上人が活躍する時代にもう一人比叡山延暦寺における浄土仏教・念佛の流れにおいて最重要人物となる僧侶が生まれた。その僧侶こそが恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。天慶(てんきょう)五年(九四二年)大和国北葛城郡当麻にて、父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に生を受けた。幼くして父と死別し、信仰心の篤い母によって育てられる。九歳にして比叡山延暦寺へと登ったと伝えられている。師は天台宗中興の祖と誉れ高い慈恵大師良源(じけいだいしりょうげん)僧正である。ありとあらゆる学問を学び、それら全てを吸収し、咀嚼する才覚が間違いなくあったと言えるのが恵心僧都源信という人である。師であり学僧としても名高い良源は己の持てる全てを源信に注ぎ込んだと言っても過言ではない。源信は母の諌めもあってか比叡山においての名利栄達の道を捨て去り、横川(よかわ)にある恵心院(えしんいん)にて隠遁(いんとん)し、ひたすら求道の一生を送ることになる。そして四十四歳の時に『往生要集(おうじょうようしゅう)』という書物を完成させた。日本人の精神性に多大な影響を与えることになった偉大なる書物である。】

 空也上人の時代はまさに浄土仏教・念佛の教えが日本中に広まるはじまりの時代と言えます。空也上人が活躍されている同時代に恵心僧都源信が生まれました。幼いころに父と死別し、比叡山へと登られたのは法然上人と通じるものがあります。
 有り余る才覚と他を寄せ付けぬほどの勤勉さで勉学に励み、『今昔物語集』には「三条の太后の宮の御八講』(法華八講・法華経の講義を行う法会)に呼ばれたとあり、また「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」(天台宗の僧侶としての最終試験のようなもの)では問題に対するその答えの素晴らしさなどにより、その名声は広く知られていましたが、布施で源信が手に入れた品々を母に贈ったところ「遁世修道こそが我が願い」という言葉と共に布施の品を送り返されたと言い、また源信自身の思う所によって比叡山の三塔の一つの横川というところにある恵心院で隠遁することになったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-09-11 00:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 07日

私説法然伝31

『私説法然伝』(31)極楽への道⑥

 先月号では「日本における念佛のはじまり」について書きました。今月はその続きになります。

【比叡山延暦寺にて確立された「山の念佛」とはどのようなものであったのだろうか。源為憲(みなもとのためのり)が記した『三宝絵詞』によれば「秋八月の風涼しい時、中旬の月の明るい頃、十一日の暁から十七日の夜に至るまで、不断に行じられる」とあり、また「身は常に阿弥陀佛を廻(めぐ)るから、身の罪はことごとく無くなってしまう。口には常に経を唱えるから、口の咎(とが)が消えてしまう。心は常に佛を念じるから、心の過ちはすべて尽きてしまう」と記されている。そして重要となるのが「阿弥陀経に、若(も)し一日、若し二日、若し三日、乃至七日、一心不乱臨終の時に心顛倒(てんどう)せずして、即ち極楽に生まれると。七日間に限るには、この経説に依る」とある。身と口と心、すなわり私たちの身体と行いが作り出す「罪」を念佛によって消し去ることによって極楽浄土へ生まれる事ができるようになるという理解がなされていたのである。この比叡山における念佛の流れの中から生まれでたのが空也(くうや)上人と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。空也上人は今日では空也上人像が有名である。平安時代中頃の僧侶で、阿弥陀聖(あみだひじり)とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれる。延喜二十二年(九二二年)尾張国分寺にて出家し、在俗の僧侶として諸国を廻り「南無阿弥陀佛」と称えながら道路や橋、寺院建立などの社会事業を行ったとされる。やがて比叡山延暦寺にて授戒し「光勝」という名を授かる。六波羅蜜寺の本尊十一面観音菩薩立像は天暦五年(九五一年)に空也上人が西光寺を創建した際の本尊とされている。鴨長明(かものちょうめい)編の『発心集(ほっしんしゅう)』には「これを我が国の念仏の祖師と申すべし」と空也上人についての記述がある。空也上人は鉦(かね)や太鼓などの楽器を用いた踊り念仏をおこなったと伝えられる。市井の中において口称の念佛を人々に伝えられたのである。その影響は後世の念佛者たちにも与えている。】

 比叡山延暦寺においてはじまった浄土仏教の流れ、それを「山の念佛」とも言いますが、その中で様々な僧侶たちによってその流れがさらに発展していくことになります。特に有名なのが空也上人と恵心僧都源信です。空也上人について知る人は少なくとも、京都の六波羅蜜寺に伝わる康勝作の「空也上人像」を知る人は多いでしょう。空也上人は「聖(ひじり)」と呼称される、諸国を廻りながら勧進(かんじん)(布教活動と寄付の募集活動)を行う僧侶でありました。

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# by hechimayakushi | 2017-08-07 22:55 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

8月のお知らせ

8月の12日は薬師縁日をお休みさせていただきます。
またお盆期間中の12日より17日までご祈祷をお休みさせていただきます。


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# by hechimayakushi | 2017-07-13 00:23 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

私説法然伝30

『私説法然伝』(30)極楽への道⑤

 先月号では「阿弥陀佛と本願」について書きました。今月はその続きになります。

【日本に佛教が公(おおやけ)に伝わったのは欽明天皇(きんめいてんのう)の時代、壬申(じんしん)の年・五五二年とされている。それ以前の戊午(つちのえうま)の年・五三八年説もある。また渡来人によって私的に伝来していたという説もある。いずれにせよ欽明天皇の時代六世紀なかば頃にもたらされたものと考えられている。その中にもちろん阿弥陀佛と、その信仰の中心となる浄土三部経(じょうどさんぶきょう)をはじめとする各種の経典類がもたらされたと考えられている。来世への往生という考え方は早くから注目されており、阿弥陀佛信仰・西方極楽浄土への往生思想(二つを合わせて「浄土仏教」とする)は日本において広まりを見せていた。本格的な研究のはじまりは奈良時代からであり、南都の各宗派で多数の学僧が経論を学んだ。日本における浄土仏教の確立という観点で言えば平安時代のはじまり、桓武天皇の時代からと言える。それは最澄と空海という日本佛教改革者の登場によってもたらされる。二人は中国で学び、帰国して日本の佛教の新たな道を切り開いた。その二つの流れが天台宗と真言宗であり、それぞれに浄土仏教の思想が取り込まれている。その中で最も重要となるのが天台宗における浄土仏教の思想と言える。最澄は修行法の中の一つに常行三昧(じょうぎょうざんまい)と呼ばれる修行法を設定した。それは常に行道をしながら口に南無阿弥陀佛と称え、心に阿弥陀佛を思い浮かべる、というものであった。これが日本天台宗・比叡山延暦寺における「念佛」のはじまりとなり、それを発展させたのが最澄の弟子の円仁(えんにん)である。円仁は最澄と同じく唐に渡り、様々な困難や出会いにより五台山(ごだいさん)へと登る。そこで出会ったのが唐の僧侶・法照(ほっしょう)により初められた五会念佛(ごえねんぶつ)であった。五会念佛とは、五種類の音声からなる音楽的な称名の念佛である。日本へと戻った円仁は比叡山に常行三昧堂を建立し、五会念佛三昧法として、念佛三昧行・不断念佛(ふだんねんぶつ)を行うようになった。これが後に「山の念佛」と呼ばれる比叡山における浄土仏教の確立と言えるものである。】
 
 日本へと佛教が伝来した時点での佛教の広まりであったり、人々の信仰がどのような形であったのかは、はっきりとしないことも多々あります。しかし、早い時期から往生思想、兜率天と呼ばれる弥勒菩薩の浄土への往生思想などが信仰されていたことからもわかりますように、日本の人々にも「往生」というものが受け入れられていたことが理解できます。また、奈良時代には南都の佛教、平安時代には最澄と空海によって切り開かれた佛教、特に最澄の開いた比叡山延暦寺における「念佛」が日本における念佛の形を決定づけることになったのです。最澄の弟子の円仁は、実に数奇な人生を送られた方です。『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』という世界三大旅行記の著者として世界的にも有名な僧侶なのであります。

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# by hechimayakushi | 2017-07-13 00:21 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 12日

私説法然伝29

『私説法然伝』(29)極楽への道④

 先月号では「念佛」について書きました。今月はその続きになります。

【阿弥陀佛への念佛とは何か?それについて考えるにはまず阿弥陀佛とは一体どのような佛であるのかを知らなければならない。阿弥陀佛とは、ある王が無上のさとりを得るために、世自在王佛(せじざいおうぶつ)という佛の弟子となり法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となった。法蔵菩薩は全ての存在を救い取るという四十八の「本願(ほんがん)」(佛になるためにたてる誓い)をたて、途方もなく長い時間をかけて修行を重ねて、全ての「本願」を成就して阿弥陀佛となった。阿弥陀とはアミタ=無量の意味を持つ。阿弥陀佛の別名には無量寿佛(むりょうじゅぶつ)と無量光佛(むりょうこうぶつ)とがある。無量寿とは無限の寿命を持つという意味になり、無量光とは無限の光を持つという意味となる。無限の寿命は「本願」=救いは時間的制約を受けない、つまりいつでもいつまでも救い取られていることを示す。無量光の光は範囲を示し、全ての存在を照らす、つまり「本願」=救いに範囲の限定がないことを示している。阿弥陀佛とは法蔵菩薩の「本願」=全ての存在を救い取ることが成就したことを現した名前を持つ佛なのである。
では「本願」=全ての存在を救い取るということはどういうことか?阿弥陀佛は、はるか昔に本願成就され西方極楽浄土という名前の佛の世界を建立され説法を続けられているという。全ての存在が、その阿弥陀佛の世界へ往き生まれ、阿弥陀佛のもとで佛と成っていくことが「本願」=全ての存在を救い取るということである。
阿弥陀佛への念佛の「本質」は阿弥陀佛の「本質」とも言える「本願」への念佛とも言える。それはつまり「西方極楽浄土へ往き生まれることを願う」ということでもある。
では人々はどのようにそれを願っていたのであろうか?また、どうして願わなければなかったのであろうか?そして法然上人はいかにして「本願」と向き合う事になったのであろうか?】
 
 現在の我々は「阿弥陀佛」に関しても「念佛」に関しても簡単にその詳細を知ることができます。しかし法然上人の時代は大変な苦労を重ね、勉学を重ねて、一つ一つ知識を重ねて、ようやくたどり着けたのでしょう。また、今現在と違って日本で手に入る情報にも限りがありました。その中で人々がどのようにして阿弥陀佛や念佛と向き合っていたのかを見ていくことによって、法然上人がどのようにして「本願」と出会い、向き合っていかれたのかが理解出来るのではないでしょうか?

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# by hechimayakushi | 2017-06-12 14:23 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)