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へちま薬師日誌

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2024年 03月 17日

私説法然伝109

『私説法然伝』(百九)法然の法難⑦

 先月号では法然上人の建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後鳥羽帝に仕える女官が出家してしまう、しかも興福寺によって訴えられている最中の法然上人の弟子による事件である。伝記によればこの事を悪く後鳥羽帝に伝える者がいたようであり、また慈円の『愚管抄』によれば女官が院の御所へ弟子たちを招き入れ説法を聞き夜が遅くなったので泊まらせたとある。つまりはスキャンダルとして伝聞してしまったのであろう。
 後鳥羽帝は当然の事ながら怒り狂った。自分が留守の間に、自分に仕える院の女官が勝手気ままに出家したのだから当然の事とも言える。現代で言えば女性高級官僚が大臣の外遊中に許可も得ずに転職してどこかへ行ってしまったようなものでもある。 女官=女房はその立場や地位は様々であり、時代によっても位置づけは変わるが、いわゆる院政期から鎌倉時代においては女院(皇后など天皇に次ぐ地位の女性)の数が増えたことにより、自然とそれに仕える女官=女房の数も増えた。
 安楽房と住蓮房の元で出家した女官は、一説には松虫・鈴虫という二人の女官であり、また一説には伊賀局亀菊、また坊門局ともされるが仔細不明な点が多い。後鳥羽帝の愛妾とも言われるが、その点も不明である。愛妾であれば後鳥羽帝の熊野行幸に従う可能性もあり、留守を預かりながら鹿ヶ谷まで安楽房と住蓮房の別時念仏法要に出かけるという点から考えるとそこまで重要な地位の女官ではなかったのかもしれないが、後鳥羽帝の怒りから考えると、後鳥羽帝にとって怒る理由がある程の人物であった可能性は高い。
 朝廷という法の執行機関を飛び越えて、後鳥羽帝の怒りは執行されることとなった。これには女官の出家というスキャンダル化された出来事、つまり自分の顔に泥を塗られたという怒りだけではなく、そもそも朝廷の上に君臨する「治天の君」として興福寺の訴えを聞きながらも、法然上人という当時における革新的な宗教思想家を理解し、その争いを自分の意向の中で納めることで、興福寺の上にも法然上人の上にも立つ、全ての存在の上に君臨する存在であることを示していた事を台無しにされた怒りがあったものと考えられる。
 これは極めて政治的に高度な思考を後鳥羽帝はされていた事の裏返しとも考えられる事である。後鳥羽帝はまさに「王」と言える存在であった。その能力と行動は「王」としてのものであり、それは白河帝から続く「治天の君」のなんたるかを示すものでもあった。君臨すれども統治せず、ではない、君臨し統治する存在が「治天の君」であったのだ。だからこそ後鳥羽帝は激怒し、処断する必要に迫られたと言える。
 安楽坊遵西並びに住蓮房は、死罪となった。これは僧侶に対する処罰としては異例の事である。だが、その異例をもってして「治天の君」のなんたるかを示したのである。そして今までは(おそらく高度な政治判断も含めて)弟子の不行状・不始末の責任までは問われなかった法然上人並びに法然上人の教団そのものへも処罰は下ることになってしまったのである】

 ここまで一気に「法然上人の法難」の一連の流れを書いてきました。これらはひとまとめに「建永の法難」とも「承元の法難」とも言われますし、比叡山延暦寺での法然上人への弾劾と興福寺奏状への朝廷の裁定までを「元久の法難」とし、それ以後の法難を「建永の法難」と分ける考え方もあります。ここでは「元久の法難」と「建永の法難」を区別しながらも、連続していることから一つの流れとして書きました。この「法難」という災難によって法然上人とその周辺は大きく変わることになります。
 興福寺奏状の様な他宗派からの攻撃と、法然上人の弟子の行いの結果と、朝廷や後鳥羽上皇の政治判断などの様々な要素が絡み合い、最終的には後鳥羽上皇という当時の権力構造の頂点に立つ存在がどういうものであるのか?という点をよくよく理解すると、その災難の解像度が上がるものであると思います。最高権力者が最高権力者たらんとするところに、法然上人の悲劇と転換点があるのです。


# by hechimayakushi | 2024-03-17 19:14 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 03月 17日

私説法然伝108

『私説法然伝』(百八)法然の法難⑥

 先月号では法然上人の元久の法難から建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建永元年(一二〇六年・元久三年四月に建永に改元された)の夏には興福寺の訴えを三条中納言藤原長兼卿(ふじわらのながかね)が中心メンバーとなって対応策を考え、後鳥羽帝の意向もあり、法然上人の責任は問わず、あくまで弟子の不始末というところで決着をさせた模様である。藤原長兼卿の日記『三長記』にその経緯が記されているが、最終的にどのような決着になったのかは記されていない。しかし法然上人の弟子の法本房行空(ほうほんぼうぎょうくう)という「一念義」という考えの弟子は法然上人によって破門されていることから、行空だけは法然上人の教団にとっても看過できないものがあったとわかる。「一念義」とは「一念往生義」とも言い、おおざっぱに言えば念佛を一念すれば必ず救われるのだから何をやっても良い、という考えである。しかし、これは根本的に間違っていて、我々の一念は往生の要因ではなく阿弥陀佛のはたらきによる往生が確約されているのである。したがって行空はそもそも法然上人の説かれた他力本願念佛を間違えたかたちで理解していた。なので間違った結果となったのである。
 行空の考え方は、阿弥陀佛の他力本願念佛を信じるという点では間違ってはいない。しかし「一念」を二つに区別して浄土に往生することに優劣をつける点や、浄土に往生することが確定しているのだから一念以上の称名念佛は不要であり悪い行いを重ねても問題が無いとする点などは他力本願念佛を読み間違えたものである。法然上人の日々の六万遍とも七万遍とも言われる称名念佛は外向けの「方便」であり、真意は一念義であると主張していたが、法然上人の他力本願念佛とは、阿弥陀佛の本願を知り信じる安心感から、報恩感謝の生き方としての称名念佛を勧めるものであり、完全に行空は間違えた捉え方をしていたのである。
 法然上人が行空を破門したことにより、興福寺の訴えを朝廷が裁定し法然上人もそれに従い行動していたことはうかがい知れる。興福寺が完全に納得したかどうかはともかくとして、朝廷としては「落としどころ」を作って事を荒立てずに解決したかったことは間違いがないであろう。
 行空以外にも興福寺が問題視した弟子がいた。名前を安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)と住蓮房と言い、安楽房は以前に『選択本願念佛集』を作成する際のメンバーの一人であった。もともと朝廷における外記(げき)という文章作成のスペシャリストの実務官僚の家柄の出であり、その能力があったからか執筆者として関わっていたが、慢心があったので法然上人からメンバーを外されたという逸話がある。安楽房は僧侶としての才覚が優れていたようであり、文筆家であるだけでなく声明(お経に節や音程をつけて唱えるもの)も優れていたようである。同じく声明に優れたのが住蓮房である。彼ら二人はその優れた声明で人々を惹きつけ人気があったようである。安楽房と住蓮房が行っていた声明は、現代の西山浄土宗でも伝わりつとめられている善導大師の「六時礼讃」(西山浄土宗勤行式の三尊礼もその一部分)に節をつけて唱えるものであったという。それは当時の人々にとっては画期的な音楽的な美しさのものとして心をとらえたものであった。
 そして建永元年十二月九日、おそらく行空の破門で朝廷と法然上人は興福寺の訴えの落としどころとして決着させることができたのであろう、後鳥羽帝は熊野行幸で不在となり、安楽房と住蓮房の両名は京の都のはずれの鹿ヶ谷の草庵で別時念佛(べつじねんぶつ・期間を定めてひたすら称名念佛を行う行事)において声明の法要をつとめていた。これは現代風に考えれば一種のコンサートやイベントのようなものでもあったであろう、多くの聴衆がかけつけて行われた。その聴衆の中に、後鳥羽帝に仕える女官の姿があった。
 後鳥羽帝が熊野行幸で不在の間に、安楽房と住蓮房の声明を目当てに鹿ヶ谷に訪れたのである。そして女官はその後に出家をしてしまうことになった。】  


# by hechimayakushi | 2024-03-17 19:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 01月 01日

私説法然伝107

『私説法然伝』(百七)法然の法難⑤

 先月号では法然上人の元久の法難から建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人の法難、つまり公的な迫害に関しての「なぜ起こったのか?」という点を理解するには、歴史的経緯と同時に構造的な理解も必要となってくる。つまり法然上人の仰られていた事や考え方がどうして迫害につながったのか?ということである。
 法然上人の思想、これはつまり阿弥陀佛とは何か?という事を法然上人がどう理解していたのか?という点に尽きる。これは、阿弥陀佛とは全ての存在を救うことを願い、その願いを成就した結果である、という理解であったことは間違いがない。なので法然上人のお念佛とは救われた事への報恩感謝から起こる念佛である。これが法然上人にとっての安心(あんじん・救われたという理解)と起行(きぎょう・救われたことへの報恩感謝)である。法然上人にとってそのありがたさが全てであった。なので法然上人は繰り返し、ひたすらそのありがたさを人々に伝えられ、お念佛を勧められたのである。
 そのお念佛を勧められたことで、人々に教えは伝わるのだが、身近で毎日法然上人の言葉を誰もが聞けるわけではない。距離があればあるほど正確に全てを伝え、理解することは難しくなる。なので法然上人の教えを間違ったかたちで理解してしまう人々も多くいた。
 そもそも法然上人が説かれた教え、とは法然上人の教えではなく、釈尊の説かれた阿弥陀佛の真実であり真理そのものである。これは浄土三部経というお経に明らかにされていたことであり、今までの解釈ではその真実が正しく明らかにされていなかったことを善導大師が独り明らかにされていた。それを法然上人が発見されたわけである。
 だが、私たちはその事実の関連性を間違えやすいのである。阿弥陀佛とは真理そのものであり、真理とは救いそのものである。それはそのままでは誰も理解ができないものであり、さとりを開かれた=真理を理解した釈尊でしか理解できない世界なのである。だから釈尊は理解できるかたちで浄土三部経という言葉で真理を残された。しかし言葉で真理は顕(あらわ)しきれないものであり、それを読み解くことも難しい。
 善導大師はそれができたのである。だから法然上人は善導大師を「師」とされたのだ。佛の教えとは師資相承の教え、つまり師僧から弟子へと伝えることが基本となる。釈尊は佛となられたので、その力や能力を使って正確に教えを伝えることはできたが、釈尊以降はそれが難しくなっていく。どうしても言葉の力だけでは完全に確実に伝えることは難しい。
 法然上人もまたその難しいことをひたすら繰り返し、繰り返されたのである。だが、やはり間違ったことが起こってしまう。そこで他の宗門からの非難が起こるのである。責任論で言えば法然上人にも非があるとされてしまう。朝廷は法然上人の教えそのものを否定せず、あくまで弟子や信者が間違った理解をしたことで間違った結果になったと理解した。これは自然な理解である。興福寺は佛教として、より厳しく法然上人の責任を迫った。これもまたある意味では佛教の厳しさの一面でもあるかもしれない。
 法然上人の法難、迫害の構造の一つはその佛教の持つ構造そのものの一面でもあった。しかし法然上人という枠組みを飛び越えたところにも法難の原因が発生してしまうのである。これが建永の法難のもう一つの構造となるのである。
 建永元年(一二〇六年)十二月九日後鳥羽帝の熊野行幸の最中に事件が起こるのである。この事件が引き金となり、法然上人にとって最大の苦難とも言える法難が起こるのであった。】 


# by hechimayakushi | 2024-01-01 09:43 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 01月 01日

私説法然伝106

『私説法然伝』(百六)法然の法難④

 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄、元久の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【南都最大の勢力であった興福寺は、元久二年(一二〇五年)十月、全ての宗派・宗門による訴えとして念仏停止(ねんぶつちょうじ)を求めた。これは院、つまり後鳥羽帝並びに朝廷への訴えとなるものである。比叡山延暦寺の僧侶の怒りは、あくまで法然上人が天台僧であり、天台宗内部の問題で収まるものであったが、後に「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」と呼ばれる念仏停止の訴えは国家への訴えであり、規模が違うものとなった。
諸説あるが、奏上文の多くは笠置寺の解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)の作文によるものとされる。貞慶はかの信西入道の孫にあたる。つまり法然上人にとって特別な存在であった遊蓮房円照の甥にあたるのである。貞慶は法相宗の学僧であった。祖父の信西入道のごとく、頭脳明晰そのものであったことは奏上文を見れば理解できるのである。
 奏上は九種の失、つまり過失を念仏停止の理由として挙げている。
 新宗を立つる失、新像を図する失、釈尊を軽んずる失、万善を妨ぐる失、霊神に背く失、浄土に暗き失、念仏を誤る失、釈衆を損ずる失、国土を乱る失の九種である。 まず何よりもそもそも朝廷に何の届け出も願い出もなく新宗を建てることは許されないことであると主張されている。
 朝廷への届け出や願い出という点は、当時の時点では新たな宗派が出現することは想定外であったことだろう。南都北嶺の八宗派以外の新たなものが出現することは誰も想像できなかった。法然上人という一人の人間の語る言葉には、それほどの衝撃があったのである。
 その衝撃に対して、いよいよ本気で何とかしなければならないという対応策を迫られたという感がヒシヒシと伝わってくる奏上文である。
 これらの過失はいずれも反論反証できるものであり、すでに法然上人が作られた七箇条制誡で充分対応できるとも考えられるが、大事な点としては興福寺が日本佛教の諸宗派つまり各宗門をまとめて朝廷に対する訴えというところまでいってしまった点である。
 比叡山延暦寺での訴えは、あくまで宗門という組織の中の話であったが、これは公(おおやけ)の問題となったのだ。
 現代で言えば裁判にまでなったようなものであり、それだけ深刻な問題となったことがうかがい知れる。
 しかし法然上人そのものへの批判という性格のものというよりは、法然上人の弟子の不行状を問うものが多く、これは実際にそうであったことで、法然上人の弟子を名乗る者の中に法然上人の教えとは違うことを行うものが多かったからである。
 いわゆる異安心(まちがった他力本願念仏の教えを信じ行動する)の者がおり、問題行動を起こしていたからである。
 法然上人の真意、それは他力本願念仏思想であるが、法然上人の世間的なお姿は戒を保ち、ひたすら称名念佛を行う「聖」(ひじり)として認識されていたのであろう、それを咎める「法」は佛教にも朝廷にもなかった。だが、弟子の事となればそれは通用しない。弟子の不行状は師匠の不始末となるのである。弟子の行いの責任は師匠が問われる事になる。興福寺奏状に対する朝廷の判断はあくまで法然上人の弟子の不行状を認め、あくまで弟子の中に間違った教えを信じる者がいることを咎める判断であった。これは極めて的を得た判断であるが、これにより興福寺側はさらに批判をヒートアップさせていく。
 これは元久二年十月から十二月までの動きである。
 翌年、時代は建永元年(一二〇六年)となるとさらなる急展開が待っていたのである。いわゆる建永の法難の始まりである。
 比叡山延暦寺での訴えや興福寺による法難は、法然上人にとって試練であったかもしれないが、この先に起こる法難はまさに悲劇的なものとなっていくのである。】


# by hechimayakushi | 2024-01-01 09:41 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 01月 01日

私説法然伝105

『私説法然伝』(百五)法然の法難③

 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【久我通親卿亡き後の朝廷は、九条兼実卿の息子で父と共に政界を追われつつも後鳥羽帝の意向もあり左大臣として政界に復帰していた九条良経卿と、九条兼実卿の亡き兄の孫にあたる右大臣の近衛家実卿という若き摂関家の両名が残された。両名とも若く後鳥羽帝に随うものであり、政界の主導権は後鳥羽帝が握ることになった。後鳥羽帝の時代の始まりである。
 後鳥羽帝はすでに土御門天皇に譲位されており、本格的に治天の君として院政を開始する。藤原定家が『明月記』に残したように、その治世は精力的に宮中行事を再興し、朝廷を統率し、まさに治天の君にふさわしいものであった。
 建仁三年(一二〇三年)比企能員の乱が鎌倉で起こると、二代鎌倉殿の頼家は事実上失脚し、その弟が三代鎌倉殿となる。後鳥羽帝自ら「実朝」と名乗らせ、実朝もまた親後鳥羽帝であり、執権北条時政とも良好な関係を築き、政治体制は安定化した。
 後鳥羽帝の治世によって京の都周辺は政治的に安定していたが、政治的に安定するということは、政治以外で何かと騒がしくなるものである。法然上人の周りもそうであり、門弟や信仰者が増えるほど問題は多く大きくなっていったのである。
 法然上人の弟子として、まず比叡山黒谷時代からの兄弟弟子でもあった信空、そして感西がいた。承安五年(一一七五年)の立教開宗以来様々な人々が法然上人の元へ集まるが、文治二年(一一八六年)の大原問答や文治六年(一一九〇年)の東大寺での三部経講説の時期に九条兼実卿の入信や善慧房證空(西山上人)の入門があった。
その後の選択集を撰述する時期までに勢観房源智や聖光房弁長らが入門する。建仁元年(一二〇一年)には後の親鸞聖人となる綽空が入門する。この他にも多数の弟子はいたが、入室の弟子、つまり法然上人と共に生活をしていた直弟子は法然上人の遺言である『没後遺誡文(もつごゆいかいもん)』に記された「但し弟子多しといえども、入室の者僅わずかに七人なり。所謂信空・感西・證空・円親・長尊・感聖・良清なり」とあるようにごく限られたものであった。
 法然上人の弟子と言っても多くは法然上人と共に暮らしていたわけではなく、他所で活動していたのである。
 法然上人のあずかり知らない所で弟子が法然上人の思惑と違う事を言っても、それは法然上人が言った事と同じ扱いになる可能性がある。佛教における師弟関係とは、そのような面があり、法然上人の教団においてもその面から問題は発生したのである。
 元久元年(一二〇四年)法然上人の弟子の言動、おそらくは自分たち他力浄土門こそ正しい教えであり自力聖道門を卑下するようなものであったであろう、そういった言動を問題視した比叡山延暦寺の僧侶が延暦寺の大講堂に集まり天台座主真性に念仏停止を訴えた。元久の法難の始まりである。法難とはインドや中国や朝鮮においての仏教弾圧と排斥の事であり、我が国においては戦乱や政治的な動きによる災難なども含まれるものである。後の日蓮聖人への弾圧や織田信長の比叡山焼き討ちもそうである。
 この動きに対して法然上人は「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)という起請文を作り対応された。これは法然上人が作られた弟子の言動を戒めるものであり、これに弟子が署名することで弟子の勝手な振る舞いを正そうとされたのである。署名した弟子は一九〇名であり、署名は法然上人に近い弟子からされており、善慧房證空(西山上人)はその四番目に名前がある。この七箇条制誡を比叡山延暦寺に送り、九条兼実卿らの取り計らいもあって、比叡山延暦寺側の訴えは何とか収まりそうであったが、問題はまだ終わらなかった。
 法然上人はあくまで比叡山延暦寺の僧侶という「身分」を持っていた。「比叡山黒谷沙門源空」と署名されるように、法然上人はあくまで天台僧であった。なので比叡山延暦寺としても「宗門の中の問題」として納められたのである。そういかないのが南都であった。】
        


# by hechimayakushi | 2024-01-01 09:40 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)