2013年 02月 12日
「念仏を申し候に、はらのたつ心のさまざまに候。いかがし候べき。答う。散乱の心よにわろきことにて候。かまえて一心に申させたまえ」法然房源空『百四十五箇条問答』より お念仏申してても腹が立つ、善いことをしていても、腹が立つ。 これは人ならば至極当たり前のことです。 だからこそ、我々は凡夫であるということがわかるのであり、凡夫であるからこそ、お念仏の教え、本願念仏の教え、他力の教えというものが、「ありがたい」ものになるのです。 しかし、一つのことを信じて、その道を進むというのは非常に難しいものです。 だからこそ、法然上人は「かまえて一心に」と仰ったのではないでしょうか? 凡夫である身では、なかなか一つの道を突き進むことは難しい。 実際に道をそれることも多々あることでしょう。 それは仕方がないことですが、「かまえて一心に」という心の状態をどこかで留め置くことが大事なのではないでしょうか? 法然上人は別の問答で、「散乱の心」が起きるのは仕方がないことである、とも仰ってます。 「散乱の心」が起きた時に、「かまえて一心に」の心を思い出すことが、信仰なのではないでしょうか?
by hechimayakushi
| 2013-02-12 14:24
| ことば
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