2013年 06月 17日
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」『歎異抄』より親鸞聖人 有名な親鸞聖人のお言葉ですが、非常に難しく、読み方によっては親鸞聖人の思いと違ったように受け取ってしまうお言葉です。 少し読み方を変えて、後ろの部分から読んでみましょう。 「本願のかたじけなさ」とは阿弥陀如来(阿弥陀仏・無量寿仏・無量寿如来)の本願(別願・第十八願・『無量寿経』の「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」)の成就により法蔵菩薩が阿弥陀如来と成られた、それは全ての衆生の極楽往生が既に為っているということであることになるので、「そくばくの業」、つまり生死解脱できない者=悟りをひらくことができない凡夫=親鸞であり、さらに=全ての衆生を、「たすけたらんとおぼしめしたちける」=阿弥陀仏は漏らすこと無く助けて(極楽往生)くださることが「かたじけなさ」なのです。 では、「ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」とはどういう意味なのでしょうか? 普通に読みますと「一人」は「自分のみ」という意味になります。 したがって「弥陀の救いは私一人の為です」という意味になってしまいますが、「そくばくの業をもちける身にてありけるを」の部分が大事になってきます。 親鸞聖人は自らを「そくばくの業」を持つ者と言われていますが、これは先に書いたように、「そくばくの業」を持つとは、生死解脱できない者=悟りをひらくことができない凡夫=親鸞であり、それは全ての衆生に当てはまる事ではないでしょうか? もし、違うのならば悟りを開き、如来と成ることが出来るのです。 または自分の力で極楽往生することが出来るのです。 つまり、阿弥陀如来の「救い」により極楽往生し如来となるということが不要となります。 ここが大事なところです。 凡夫(=悪人)とは、何か? それは観無量寿経にある通り、悟りをひらく事が出来ない・自力にて極楽往生することが出来ない、その状態を「凡夫」とお釈迦様はおっしゃいました(如是凡夫) 親鸞聖人は自らがそうである、凡夫であるとおっしゃられているのです。 そして、そうであるという自覚があるからこそ、自分は救われている(極楽往生が決定している)のだと確信することが出来、かたじけない、ありがたいのだとおっしゃっているのです。 私は常日頃から自分が凡夫であると自覚し続けているかと言われたら、そうでない状態ばかりだと思います。 その自覚が出来ないことが凡夫の証であると、『観無量寿経』にてお釈迦様はおっしゃっています。 つまり、私は現在進行形の凡夫であり、今現在もそうなのですが、そうとは認識せずに生きているわけです。 また、その状態が凡夫でなくなる可能性はほぼないでしょう。 でも、既に極楽往生が決定している状態であるわけです。 では、それがかたじけなく思えているでしょうか? 思えていない自分がいるわけです(涙)
by hechimayakushi
| 2013-06-17 01:51
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