2013年 07月 08日
「心は猿猴のごとし。五欲の樹に遊んで、暫くしも住まらざる故に」源信『往生要集』より 人間の欲とは、猿が樹で遊ぶように、とどまることが無く、常に変化して落ち着くことがないという意味。 仏教の実践には三学というものがります。 三学とは、①戒学②定学③慧学の3つで、仏教の基本的な実践方法・修行内容となります。 戒学とはいわゆる戒律で、定学とは心の安定方法・禅定で、慧学とは智慧の習得です。 戒律を守り、心を安定させ、苦しみの原因を観察し、それにより悟りをひらくことができるとするのが三学の目的です。 しかし、ブッダ入滅後、実際に悟りをひらいた者がどれほどいるでしょうか? ましてや今の世の中でそれができるのでしょうか? 自分自身を省みてもそれは不可能にしか思われません。 先月に親鸞聖人のお言葉を集めた『歎異抄』を紹介しましたが、今から約800年前の親鸞聖人の時代にはすでに末法思想(仏教の教えだけある時代)があり、現実に悟りをひらいて仏となることは不可能に近いと考えられていました。 親鸞聖人の師僧で、日本の浄土仏教の開祖である法然上人もまた、そう考えられた一人です。 法然上人は比叡山にて三学の実践、つまり、ひたすら戒律を守り、修行を行い、学問に励みました。 それでも自らのつくりだす欲望が消えることはなかったのです。 現世で悟りをひらくことは諦らめ、浄土(仏の世界)へ往生し、そこで修行し悟りをひらくというのが浄土思想の基本なのですが、法然上人もその浄土思想に心ひかれ浄土往生を目指されました。 しかし、比叡山での浄土往生を目指す修行は難しく、往生できるのかどうかわかりませんでした。 その中で出会われた教えが唐(中国)の善導大師によって書かれた『観経疏』という『観無量寿経』というお経の注釈書です。 そこには本願念仏の教え(全ての衆生が阿弥陀仏の願力により救いとられ極楽へ往生できる)が書かれていました。 法然上人は自分の力によって悟りをひらくことや極楽浄土へ往生を目指す教えではなく、もっぱら阿弥陀仏の衆生を助け救いとる願力に頼る「他力」の教えに出会われたのでした。 私は法然上人が三学の実践をされ、その完成(悟り)は不可能であるとされた事が非常に大事であると思います。 それは単に人間の能力というよりも、人間の存在の根本的な仕組みそのもの問題にぶち当たったからではないでしょうか? ここでまたことばにある「五欲」に戻ります。 「五欲」とは基本的な意味として眼・耳・鼻・舌・身(五根)がその対象となる色・声・香・味・触(五境)に対して起こる執着、つまり、5つの感覚器官によって起こるもろもろの欲の事を指します。 または、五境そのものを欲望の原因として五欲と言います。 この五欲が消せますでしょうか? 三学に励めば消えるのでしょうか? その「消える」ということは何なのか? 悟りをひらけば消える、とするならば悟らなければいけません。 悟るための方法論として三学がありますが、三学に励んでも消えない者はどうしたら良いのでしょうか? 五欲というものをよく考えてみなければないらいと思います。 仏教の教えの根本に諸行無常・諸法無我があります。 全ての存在は常ではなく、そのものだけで成り立つものはない、という教えです。 悟るとは、諸行は無常であり、諸法は無我であると体得することだと考えられていますが。 諸行無常・諸法無我の教えで五欲をみれば、五欲なるものの実存は無いものとなりますが、では自分自身が頭の中でそう考えても、目の前に自分の大好物があれば、その名前を聞いたりその匂いや見た目や手触りから欲望は起こります。 我慢してその大好物に手を出さなかったら欲望が消えた事になるのでしょうか? そうではないでしょう。 欲望という存在は発生し、それにより起こる結果が違っただけですから。 私は法然上人がなぜ本願念仏の思想に出会われ、それに救われたのかを考える際にこの五欲というものが非常に大事なファクターとなると思います。 単純に努力しても何ともならなかったからではないでしょう。 能力の問題でもないでしょう。 もっと深い、人間という存在そのものについての絶望感と、仏教への何かしらの絶望感があったのではないかと浅学非才の身ながら勝手に推察しています。
by hechimayakushi
| 2013-07-08 00:45
| ことば
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