2013年 08月 10日
「煩悩を断じたるを涅槃と名づけず。煩悩を生ぜざるすなわち涅槃と名づくる」『大般涅槃経』より 煩悩が無い状態の心を涅槃と言うのではなく、煩悩を起こさない状態の心を涅槃というのであるという意味。 それは悟りの状態であると言えるのである。 先月は法然上人が三学の実践をされ、その完成(悟り)は不可能であるとして本願念仏の道を歩まれた事を書きました。 今月はその続き、三学と悟りというものを中心に書きたいと思います。 三学(戒・定・慧~仏教の基本的な実践方法)の実践の目的は悟りをひらくことにあります。 それは煩悩が無い心を目指すのではなく、煩悩を生じさせない心を目指すのだと言えます。 煩悩が無い心とはどういう状態なのでしょうか? 煩悩を生じさせない心とはどのようなものなのでしょうか? 人が生きている限り、煩悩が無い状態はまず無いと言えます。 煩悩の根源は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と言います。 三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないことが、最も根本的なものであるとされます。 これは仏教では十二縁起(因縁)という苦しみの原因・因果関係を表したものでは「無明」と言います。 この十二縁起は仏教にとても大事な考え方です。 十二縁起とはどのようなものか? 少し書いてみます。 無明(むみょう)煩悩の根本。真理を知らない・無知であること。 行(ぎょう)潜在的に持つ志向作用。 識(しき)識別作用。 名色(みょうしき)物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前。識別する対象。 六処(ろくしょ)六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意。 触(そく)六つの感覚器官にそれぞれの感受対象が触れること・結びつき。 受(じゅ)感受作用。六処、触による感受作用。 愛(あい)感受したものへの渇愛。 取(しゅ)愛着したものへの執着。 有(う)執着により生じる生存。 生(しょう)新たに生まれること。 老死(ろうし)生まれが帰結すること。老いと死。輪廻。 かなり難しい内容ですが、無明というものを原因として老・死という結果までの因果関係を表したものなのです。 悟るとは先月に書いたように、悟るとは、諸行は無常であり、諸法は無我であると体得することで、煩悩の原因である無明を滅することになり、輪廻から解脱することです。 そのために三学を実践することが必要であるとされてきました。 三学の実践により正しい物事の見かた・悟りの智慧を得て、解脱して悟りに至ることができるとされてきました。 先月も書きましたが、悟りをひらくことができた人はいるのでしょうか? お釈迦様の時代はともかく、法然上人の時代ではそれは無理だと言われていました(末法思想) 人は三学を実践しても悟りをひらくことができないということです。 法然上人もまた三学を実践されましたが悟りには至りませんでした。 戒律を守り、精神を統一し、智慧を得るために勉学に励んでも、悟ることができなかったのです。 それは法然上人の能力が無かったからなのでしょうか? 運が悪かったのでしょうか? 縁の問題でしょうか? 先月に書いた「絶望」というのは、私見ですが人間の構造的な問題点というものではないかと思っています。 お金が欲しい、いい服着たい、高い地位が欲しい、という欲望がよくイメージされる欲望だと思います。 そういった欲望と違った根源的な欲望、生存に関する欲望があります。 何も食べないでいればお腹が減ります。 そうなると人間は何かを食べたい、食べないといけないという認識を生みます。 寝ないでいても同じです。 息を止めるのも同じです。 それらが生存に関わる欲望ですが、その欲望を止める、正確には「その欲望を認識し生じさせる自分というものは無我である」という状態になることが悟るという事だと思いますが、それは可能かどうか?というところに法然上人は行き当たられたのではないだろうか?と思うのです。 そういった欲望が無い状態を悟りだとか涅槃だとか高僧であるとかと言われます。 十二縁起の中で言えば眼や耳などの感覚器官で得る情報を減らしコントロールし、情報から生み出される行動を自らが「制限」することがいわゆる「修行」であったり、それが出来る状態を目指す存在が「僧侶」で、それを実践するのが「仏教」だと言われていますが、私は違うと思います。 もしそれが悟りであるならば法然上人はわざわざ自らを悟りに程遠い凡夫であるとはおっしゃられなかったでしょう。 それで良いのならば仏教はただの我慢大会にしかすぎなくなりますから。 あくまで「無明」でない状態を目指すものが仏教の目的「悟り」だと思います。 しかしそれは肉体の生存が続くかぎり出来ないのではないかという絶望感。 自らをいくら制限しコントロールしても、腹は減りますし、眠気は来ますし、それらを認識してしまいます。 その状態は悟りではないですし、どれだけやっても悟りに近づけないという絶望感があったのではないかと思っています。 そこからこの世での悟りに至ることをやめ、死後に極楽へ往生し、そこで悟りをひらくことを目指す浄土仏教の教えに傾倒されることになりました。 しかしその段階ではまだ本願念仏の教えとは程遠い状態であったと思われます。 極楽往生を願い念仏すると言っても、それはいわゆる修行であり、あくまで自分の力・行いによって功徳を積み、その功徳によって極楽往生を目指すものでした。 本願念仏の考え方は、極楽往生は阿弥陀仏の力によって成されるものであるというのが大前提になりますので、自分の力や行いで極楽往生するという考え方ではありません。 以下次回。
by hechimayakushi
| 2013-08-10 22:44
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