2013年 12月 21日
「比丘たちよ、眼は無常である。すべて無常なるものは苦である。すべて苦なるものは無我である。すべて無我なるものは、『これわが有(もの)にあらず、これわれにあらず、これわが「我」にあらず』と、このように正しい智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ」南伝『相応部経典』(サンユッタ・ニカーヤ)より 先月までお釈迦さまの「さとり」とは何か?について私なりの考えなどを書いてきました。 今月はそのまとめをさせていただきたいと思います。 私は以前に「そして苦の原因である煩悩の元となる「無明」を消滅させれば苦は消えることをお釈迦さまは悟られ、そして全ての存在は諸行無常で諸法無我であると悟られ、涅槃(安楽な精神状態)に入られ仏と成り苦しみから逃れられたのです」と書き、先月は[「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」が「さとりに到達する真理」であれば、それは一体何なのでしょうか?]と書いて終わりました。 お釈迦さまはその生涯において、様々な人々に様々な言葉で教えを説かれました。 その全てが今日まで正確に伝わっているのかどうか、それは実証が不可能ではありますが、成立した年代が古い経典をお釈迦さまの肉声に近い内容とするならば、所謂「阿含経典」(アーガマ)と呼ばれる経典がそれに当たります。 それら経典に説かれた内容を元に仏教の、お釈迦さまの教えというものを端的に表した言葉が「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」という後に「三法印」と呼ばれるものです。 これに「一切皆苦」を加えると「四法印」となります。 先月までに書いたように、お釈迦さまは「さとり」によって「苦」を消滅させた、ということに私は何ら疑念はないのです。 だが、その「さとり」とは何か?となると私自身で未だそれが何なのかはわかっていません。 では、なぜひたすら「さとり」について書き続けているのか?または「そして苦の原因である煩悩の元となる「無明」を消滅させれば苦は消えることをお釈迦さまは悟られ、そして全ての存在は諸行無常で諸法無我であると悟られ、涅槃(安楽な精神状態)に入られ仏と成り苦しみから逃れられたのです」などと断言したのか? それは私自身は「さとり」が何であるのか知りたい、という欲求が消えることはなく、またその欲求に基いて読み聞きした内容から察するにそうなのではないのか?というところなのです。 先月にも書いたように、「さとり」は「情報」ではないと思います。 だから私自身が「さとり」に到達していない以上は、「わからない」ものだと思います。 しかし、それでもそれが何なのか?という疑念に向き合い続けなければなりません。 私が「さとり」に到達することはまず不可能ですが、聞き、見て、考えていくことに意義があると思うので、私なりの考えを書き続けていきたいと思うのです。 さて、今月のことばですが・・・ 今月のお釈迦さまの言葉を自分なりに要約しますと「すべての存在は永遠に存在しない、それなので苦である。すべての存在には実体・それ自体で成り立つことがないので、すべて苦である存在には実体がなく、それ自体で成り立つことがない。それを観る為の智慧に依ってすべての存在・自分自身を観なさい」と私は要約します。 つまり三法印ならびに四法印となります。 ここでの「智慧」が「縁起の法」「十二支縁起」となると私は考えます。 では「智慧」に依って「観る」とは何か? 先月に書きましたようにお釈迦さまは「さとり」の後、七日間はその楽しみを享受され、その後「縁起の法」ですべての物事・存在を観られました。 そして、「無明」に始まり「老死」で終わる「一二支縁起」を発見されました。 これにより苦しみとはなぜ発生するのか、を明らかにされたのです。 つまり・・・ 【全ての存在には永遠性はないので苦しみを発生させる。全ての存在はそれ自体で成り立つものではない。苦しみを発生させている「我」はそれ自体で成り立たない実体の無いものである。なので「我」が「無い」、つまり「無我」となる。「無我」であると「さとる」ことが苦しみの消滅となり、お釈迦さまはそれを成し遂げた。「無我」であると「さとる」為には「縁起の法」という智慧で全ての存在を観ることが必要である】 ということをお釈迦さまはおっしゃっているのだと思います。 なので、「そして苦の原因である煩悩の元となる「無明」を消滅させれば苦は消えることをお釈迦さまは悟られ、そして全ての存在は諸行無常で諸法無我であると悟られ、涅槃(安楽な精神状態)に入られ仏と成り苦しみから逃れられたのです」と以前に書きましたが中身の順序が逆で、また先月までに書いた内容を基に修正を加えると、「全ての存在は諸行無常で諸法無我であると悟られ、涅槃(安楽な精神状態)に入られ仏と成り苦しみから逃れられ、そして苦の原因である煩悩の元となる「無明」を消滅させれば苦は消えることをお釈迦さまはあきらかにされたのです」となります。 ここまで書いてきても、やはりそれが何であるのか? 「さとり」とは何か? というところを心の底から理解できるところへ到達はできません。 その状態を「凡夫」であると言います。 そのことを理解することが数ある仏教思想、つまり各宗派の考えを理解する上での基本となると私は考えます。 ただ単純に煩悩が消えない状態、もっと単純に言えば「欲望がある」から「凡夫」であると考えてしまいがちですが、そうではなく「お釈迦さまの教えを理解しさとりに至っていない」状態を「凡夫」と言うのです。 お釈迦さまは「さとり」に到達した後、その「さとり」に至る道を人々に説かれます。 その内容や行動は「経典」として残されていますが、それらの「経典」を読む上で大事な事はお釈迦さまの目指された事、なぜ教えを説かれたのかという事を理解する上で「凡夫」という言葉の内容は非常に大事になるのです。 例えばお釈迦さまは善行を繰り返し説かれます、つまり善い行いをして悪い行いをしないようにしなさい、と説かれますがそれは善行が主目的とはなりません。 あくまで「さとり」が主目的となります。 その主目的の達成の為の手段の一つとして善行があるのです。 善い行いをし、悪い行いをしなければ「凡夫」ではないと考えてしまいがちですが、そうではなく「さとり」に至ってはじめて「凡夫」ではなくなるのです。 そのことが後々発展し形つくられる仏教というものを理解する上での最重要ポイント、特に浄土仏教というものを理解する上ではそれが最大の必須ポイントとなります。
by hechimayakushi
| 2013-12-21 11:22
| ことば
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