2014年 01月 29日
「法は本より言無けれども、言に非ざれば顕れず。真如は色を絶すれども、色を待ってすなわち悟る」『御請来目録』弘法大師空海 法=真理は本来的に言葉を離れたものであるが、言葉を用いなければ真理をあきらかにすることはできない。 真如=真理は色=この世にあるものを超越しているが、この世のものを通してはじめて悟ることができる。 という意味の言葉。 先月までお釈迦さま(ブッダ)の「さとり」についてと、多少の自分の考えなどを書いてきました。 いろいろな考え方や見方がありますが、この弘法大師空海の言葉ほど私が考える・思う「さとり」というものの性質を表している言葉はありません。 この関係性を表す仏教用語に 「勝義諦」と「世俗諦」というものがあります。 「勝義諦」とは法・真如、つまり仏の「さとり」そのものとなります。 「世俗諦」とは「さとり」を表すためのもの、言葉であったり、物質的なものであったりします。 また、「勝義諦」を覆い隠すものとして「世俗諦」は否定的な意味合いでも使われます。 「勝義諦」、つまり仏の「さとり」は「世俗諦」つまり言葉や物質(それらをまとめて色《しき》といいます)では完全なかたちで「顕せない」が、「世俗諦」つまり言葉や物質でしか表現するしかない、という関係性になるのです。 最近、私はとあるお寺のご本尊様を拝んでふと心が安らぐことがありました。 なぜ安らいだかと言えば、それは「なんとなく」としか言いようがないものでした。 ふと、思いついたのが、仏様のお姿を表した仏像なり仏画に描かれている仏様というものは一体何なのであろうか?ということです。 お釈迦さまの時代から暫くは仏様を直接絵に書いたり彫刻にしたりすることはタブーとされていました。 時代が経て、お釈迦さまのお姿を彫刻で表したりするようになりました。 初期の頃の仏像などはお釈迦さまが苦行されているお姿であったり抽象的なお姿でした。 さらに時代が経て、仏教自体が様々な国や地域に伝えられ、教えも細かく分かれていくと、仏像や仏画もそれに合わせて変化していきます。 より精密になったり、より抽象的になったり、形は様々ですが、私自身が思うには「いかに安らぎや優しさを感じられるようなお姿で表すか」という要素が入ってきたと思っています。 お釈迦さま在世の時代からしばらくはお釈迦さまの「肉声」が伝えられていました。 その時代には経典も無く、もちろん仏像や仏画もありませんでした。 しかし人々はそれでお釈迦さまの示された教え(仏のさとり)を知ることができました。 やがて時代が経ると、「肉声」を伝えることが困難になり、経典が作られ、文字で教えを伝えるようになり、その経典に対する解釈や注釈が行われ、さらに経典の数も増えていきました。 しかし、時代が進むに連れて仏教の細分化が進むと、人々は仏教を学んでもその「さとり」というものが一体何であるのかがわからなくなっていきました。 そこで仏像や仏画を通して仏の「さとり」、または「はたらき」を顕して人々の理解を深めようとしていったのだと思います。 よく「方便」という言葉が仏教には出てきますが、「方便」とは仏の「さとり」を人々に伝えるための手立てという意味です。 つまり仏像や仏画も「方便」と言えます。 先ほど書いた「勝義諦」と「世俗諦」との関係性と一緒の意味合いになります。 仏像や仏画は「さとり」そのものではないですが、「さとり」を表し、知るための手立てなのですね。 また、時代が進み様々な仏様が登場し、様々なはたらきが説かれます。 仏像や仏画はそのはたらきも表しているのです。 以前「仏教には興味がないけど、仏像を見ると心が落ち着く」という方に会いました。 その方の言う仏教とは、おそらく「難しい言葉ばかりの経典」という意味でした。 私は仏像を見て心が落ち着くということはかなりの仏教好きですよ、と話した覚えがあります。 ただ仏像や仏画を見る、それだけでも充分に仏教に入っているのだと私は思います。
by hechimayakushi
| 2014-01-29 00:24
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