へちま薬師日誌

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2014年 02月 10日

『なぜこんなに生きにくいのか』第三回

本を読む第三回
『なぜこんなに生きにくいのか』南直哉著・新潮文庫
曹洞宗の僧侶である南直哉師の著作。

しばらく間があいてしまいました。
第二章では主に人が生まれてから死に至るまで、そして「あの世はあるのか?」ということが語られています。
前章にもありますが、「人は自己決定によって生まれてきたわけではない」ということが前提として語られています。
仏教的に物事を見る、つまりは全てが縁起によって成り立っているという見方で人が生まれるということを見れば、人は父親と母親が出会うという縁によって発生する子供が出来るという縁によって生まれるわけです。
そこには「自己決定」というものは存在しないのです。
それは「なぜ生まれてきたか?」ということに自分自身で選んだ「理屈」がないということです。
ですから人は後天的に親や社会から自己を与えられ、成長と共に様々な縁によって「自分とはこういう存在である」と位置づけていくわけですね。

この第二章では著者が恐山にて経験した様々な人々にまつわる事柄が語られています。
特に「あの世」という事柄は私にとっては大事な要素となります。
西山浄土宗、並びに浄土系の宗派は「極楽往生」というものが根本にあります。
極楽往生とは普通の感覚ですと「あの世」となります。
著者もこの本で書いていますが、お釈迦さま自体はあの世というものがあるともないとも語らず、しかし輪廻というものからの解脱を説いていることから初期仏教では「あの世」を否定している、というのが通説となっています。
著者が「死そのものを問うているいる者に死後の話をするのは、旅することの意味を疑っている人間に、行き先の相談をするようなものです」と書いています。
これはつまりお釈迦さまにとっては死後が大事であったのではなく、今生きている事にまつわる事が大事であったということです。
ですから輪廻からの解脱、という事の意味合いも「輪廻なんか無い」というのではなく「輪廻という事を考えることから解脱する」という意味合いになるのでは?と著者は語っています。

では「極楽往生」とは何か?
これはまず死後の往生というものが前提となります。
肉体と精神が滅び、阿弥陀如来のいる極楽浄土という世界へ往く、ということになります。
この第二章では恐山にまつわる人々の話が登場します。
一般的に人は死んだら「あの世」それは天国であったり黄泉の世界であったり極楽であったり、人々によって違うイメージの世界へ行くのだと考えられています。
もちろん死んだら「無」になるという考えもあります。
その一般的に死後どこか違うところへ行くというイメージは、生きている間の存在が死んだ後も存在として継続してある、という考えが前提になります。
つまり「私」という人間が死ねばまた「私」としてどこかへ行く、ということですね。
ですので肉体が滅んでも、「私」というものはどこかで存在しているということになります。
だから人々は恐山へ行きイタコの方に頼み、もう一度会いたいと願うわけです。
では浄土仏教で言う「極楽往生」もそうなのか?
そこが人々にとっての疑問点、または世間的な問題点となる部分です。
このブログにおいて、先月のことばで登場しました「勝義諦」と「世俗諦」という言葉があります。
「勝義諦」とは言葉にできない真理、「世俗諦」とは言葉などで顕した真理、と捉えられます。
諸説ありますが、私自身は「私が極楽往生する」というのは世俗諦が含まれていると思います。
仏教の思想・真理の根本には「無我説」というものがあります。
無我とは「私というものは様々な要素が依り集まってできたものであるので、その私というものだけで成り立つものではない」というものです。
ですので「死ぬ」ということは肉体を維持する要素が消滅し、それに依る精神も消滅するということですので、「私」というものも消滅することだと言えるのです。
これは人によって考え方が違うので、あくまで私見となります。
死によって私が無くなる、では何が極楽へ往くのか?
そもそも極楽は有るのか?
では、極楽とは何でしょうか?
極楽は阿弥陀如来という仏の世界です。
仏の世界は三界(欲界・色界・無色界~簡単に言えばこの世~)を離れたものとされています。
つまり肉体も精神も存在しない世界となります。
なので、その世界では「私」という存在も存在することが不可能となります。
そもそも往き生まれるという言葉を使用するのも不適切かもしれません。
当然ながら物質でも精神でもないので存在を規定することができないので、「有る」ものでもないし「無い」ものでもないのです。
それを一言で言えば、我々が認識し表現することが不可能な世界なのです。
しかし、それでは極楽や阿弥陀様のことをお釈迦さまは人々には説けないのです。
なのであえて言葉を使い人々に説いたわけです。
これが「世俗諦」となります。
それは嘘やでたらめではなく、あくまで「勝義諦」を顕すための「世俗諦」となるのです。
では「極楽往生」とは「阿弥陀如来」とは何のためにあるのか?なぜそれを説いたのか?
そこが浄土仏教の根本的な部分となるのだと私は思います。
考えられるものとして第一に「肉体並びに精神が滅ぶことで必然的に無我となる=さとりの完成」という考えを顕したのではないか?
第二に「輪廻にとらわれている人の心を仏道に向けさせる為の方便として」という考えがあったのではないか?
などがありますが、いずれも私自身の私見ですし、そのことばかりを考え続けていますし、何より「仏のこころ」は私にはわからないので与太話の一つだと思って聞き流していただきたいと思います。
大事な事は、お釈迦さまは世俗諦によって勝義諦を顕し、人々の苦悩を取り除かれたことだと思います。

第二章では「思いを汲む「器」としての仏教」という章段があります。
恐山で育まれた信仰と仏教という教理を基にした宗教とは相容れないはずであるにも関わらず、恐山では人々の死者への思いを汲むための「器」として仏教があると著者は語っています。
そして死というものが近い場所であるからこそ恐山には宗教が育つ、死者を想うことの根本には生死への問いがあると著者は語っています。

続く

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by hechimayakushi | 2014-02-10 00:43 | 本を読む | Trackback | Comments(0)
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