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へちま薬師日誌

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2014年 04月 04日

3月のことば その2

「唯有念仏蒙光摂」(ただ念仏のみ有りて、光摂を蒙る)善導大師『往生礼讃』日中讃より

前回の続きです。
前回は、法然上人は「回心」された、自力修行という考えから他力往生という考えに「回心」されたということを書きました。
諸説ありますが、法然上人が比叡山におられた時代には既に源信僧都の『往生要集』が広まり極楽往生の信仰が広まっていました。
また、声に出して仏を念ずる、口称の念仏も空也上人のように市井の聖たちによって行われていたと言われています。
つまり、法然上人の時代には極楽往生の考え、口称の念仏というものは既にあり、広まっていたと考えられます。
その中で法然上人の「回心」の画期的であった点は「自分の力で修行をしての極楽往生から、阿弥陀仏の救いの力による極楽往生へ」という点になります。
それが日本の浄土仏教の画期的な点、ターニングポイントとなったのです。

法然上人は「救われる」ことが確約された状態を確信された、ということになります。
その根拠となるのが『無量寿経』や『観無量寿経』、『阿弥陀経』という浄土三部経であり、その中の『観無量寿経』の注釈書である善導大師の『観経疏』となります。
それは阿弥陀仏とは何か?極楽往生とは何か?ということを突き詰めた末に得た心のあり方と言えます。

さて、今月のことばですが、個人的に阿弥陀仏というものを端的にあらわしているのがこの言葉であると思っています。
「ただ念仏のみ有りて」というのは、私達の側が仏を念ずるという意味と、仏の側が私達を念ずるという意味の二通りに解釈できます。
「光摂を蒙る」というのは、阿弥陀仏の救いにあずかる、救われているということをあらわします。
本願念仏という考え、他力という考えで考えますと、阿弥陀仏が私達を念じて救ってくださっている、という解釈の仕方が順当であると思います。
また、「ただ念仏のみ有りて」という言葉から考えますと、私達の側には念仏のみがあるわけではありません。
いろいろな「雑念」があります。ですので、「ただ念仏のみが有る」という状態は仏の側をあらわしているのです。

この言葉で大事なのは「光摂」(こうしょう)という言葉です。
光は阿弥陀仏と阿弥陀仏の救いをあらわしています。
阿弥陀仏の語源となるのが、アミターバというインドの言葉です。
アミターバは「無限の光をもつもの」という意味です。
無限ですので、遮られることも無くなることもありません。
つまり、誰でもどこでもその救いの対象となる、これを万機往生と言います。
もう一つ語源があります。
アミターユスというインドの言葉も語源となっています。
これは「無限の寿命をもつもの」という意味です。
つまり、時間の制約がない、無限に時間がある、なので永遠であるということです。
永遠ですので、過去・未来・現在の「三世」(さんぜ)にわたってその救いが行われている、ということです。
つまり、昔も今もこれからもそうである、ということです。
アミターバやアミターユスの「アミタ」という言葉、これは「無限」という言葉ですが、これを音写したのが「阿弥陀」となります。
阿弥陀仏はもともとは遥か遠い昔、おそらく私達が認識できない過去に、世自在王仏という仏の説法を聞いた一人の国王が自らも人々を救いたいと発願し、法蔵菩薩となり、五劫思惟(おそろしく長い時間をかけた修行)の末、全ての人々を救うという願を含めた全ての願を成就し仏と成った仏なのです。
ここで大事なのが、阿弥陀仏という仏はお釈迦さまのようにこの現世に現れた仏ではない、この世界とは違う世界、三界を越えた存在である、ということです。
ですので、諸行無常などこの世の真理を越えた「無限」という状態であることができます。
それは私達の思いからしたら非現実的ではありますが、その非現実的という思いを「はからい」と言います。
三界を越えている、という時点で我々にはそれがどういった状態なのかは伺い知ることはできません。
お釈迦さまのように仏であれば、それを知ることができますし、知らしめることができるのですが、お釈迦さまは肉体を持った仏ですのでもう今の世にはおりません。
ですので、お釈迦さまは「お経」という形で阿弥陀仏という仏を人々に伝えています。
しかし、そういった事・阿弥陀仏という私達には伺い知れない存在を信じるのは難しい、信じられないという方もあります。
大事ことは信じる信じないという心の状態ではなく、お釈迦さまが示された阿弥陀仏という救いが「そうあるものである」と認識すること、ではないでしょうか?
「そうあるものである」、それを知ること、そして思うこと、それによって回心することが浄土仏教の要となります。

法然上人は回心された後、「安心」(あんじん)を得て、「起行」(きぎょう)を起こされます。
これは「阿弥陀仏に救われているのだと確信し、後生(死後)の憂いが無くなり、阿弥陀仏への報恩感謝をおこなう」ということと言えます。
法然上人が日々に何万遍と南無阿弥陀仏と称えられたのは、報恩感謝の気持ちからのものであったのです。



by hechimayakushi | 2014-04-04 11:47 | ことば | Trackback | Comments(0)


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