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へちま薬師日誌

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2014年 04月 08日

4月のことば

「比丘たちよ、わたしは、この世界をよく観察し、また、かの世界をよく観察し、すべての世界を知りつくして、正覚者、一切知者となった。されば、比丘たちよ、このわたしについて、聴いて信ぜんとする者は、ながく利益と幸福とを見ることができるであろう」 漢訳・雑阿含経「牧牛者」よりブッダのことば

4月8日はお釈迦さま(ブッダ)のお生まれになった日、降誕会です。
東充寺・薬師堂にて甘茶の接待がございます。
ご参拝お待ちしております。

前回は法然上人の「回心」(えしん→宗教的な気づき)について書きました。
また、その際に阿弥陀仏という仏様についても説明を書きました。
今回はもう少し「回心」について書きたいと思います。

回心、と言ってもそれがどのようなものなのか?
誰でも起こることなのか?
難しいことなのか?
簡単なことなのか?
いろいろな疑念が生まれます。

まず、回心というものに関してのおさらいですが、回心は心の動きとして安心感や安らぎを得るというものではなく、気がつく、発見する、というものであると確信しています。
それはつまり、何か対象を捉えている状態であるということになります。
法然上人は『観経疏』に書かれていた内容によって回心という動きが起こったわけです。
書かれていた内容によって、今まで気が付かなかった事を気がついた、ということです。
それが回心という動きです。
それは言わば「引き金」が存在してはじめて「回心」という動きが起こる、と言えます。
ですので、誰でも可能性はあるが、その引き金が何であるのかは一人ひとり違います。
簡単か難しいかも一人ひとり違うでしょう。

また、法然上人は回心に依って阿弥陀仏に確実に救われるという事を確信し、次に安心(あんじん→救われていることの実感)を得ることになりました。
そして安心から三心四修(さんじんししゅ→阿弥陀仏の救いに対して起こる気持ちと行動)という「実践」「行動」が起こりました。
阿弥陀仏の救いを深く信じ、感謝・報恩の行として称名念仏や読誦大乗(三部経を読誦すること)を行います。
また、阿弥陀仏の救いを人々に教え広められます。
それらは「起行」(きぎょう→行動を起こす・起きる)とも言います。
一つの事象に対しての結果は、一人ひとりで違ってくるものです。

私達はどうしても「かくあるべきである」という概念によって物事を見てしまいます。
回心であっても、安心であっても、起行であっても、かくあるべきと見てしまいます。
しかし、仏教的に見て一人ひとりの持っている縁と業が違うので、回心にしろ安心にしろ起行にしろ、それらの実際的な動き・働きは違ってきます。
また、それらは永遠性のあるものでもありません。
経験として記憶はされますが、永続するものではありません。
それが一つの大事なポイントとなります。
どうしても、宗教的な体験などは、それが素晴らしいと思われれば思われるほど、永遠に続いて欲しい・その効果が絶大であって欲しいと思ってしまいます。
しかし、私達人間というものにはそれは不可能であります。
いかに素晴らしい体験、幸福感を得ても、それは永続しません。
ですが、阿弥陀仏の救い、それを説かれたお釈迦さまの心、それが非常に重要なポイントになります。
お釈迦さまはさとりをひらかれ、仏となられた方です。
その方が、わざわざ阿弥陀仏という仏の概念を人々に教え広めたことが大事なポイントなのです。
お釈迦さまの教え、実践というものは基本的に「今」何を作すか?ということに重点を置いています。
「毒矢のたとえ」であるように、刺さった毒矢を「今」抜くことが大事なのであって、それがどこから誰の手によって放たれたものなのかはさほど重要ではない、という考え方です。
つまり、今、この身を解脱させることを目標としていたのです。
しかし、阿弥陀仏の教えは違います。
「今」ではなく「明日」を語る教えです。
明日どうなるか、をお釈迦さまが確約した教えと言えます。
この世で確実に未来に起きること、つまり死となりますが、同時に阿弥陀仏の救いというものが死と並び確約事項となったわけです。
そしてそれは無限に続き無限の範囲を持つ働きであります。
つまり、明日どうなるかわからなかった存在である私達にとって、まったくもって革新的な教えとなったわけです。

つづく・・・


by hechimayakushi | 2014-04-08 01:36 | ことば | Trackback | Comments(0)


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