2014年 07月 09日
「或時上人おほせられていはく、出離の志、ふかかりしあひだ、諸の教法を信じて、諸の行業を修す。おほよそ仏教おほしといへども、所詮戒定慧の三学をはすぎず。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をももたず、禅定にをいて、一をもこれをえず。」『法然上人行状絵図』より 前回は法然上人の回心から、比叡山を下りられて、吉水に住まわれるところ、その心はどうであったのかを書きました。 今月のことばは有名なことばです。 法然上人の述懐とでも言えることばです。 単純に一言で言えば「私は仏道修行をしたが、無理であった」となります。 それはどういう意味になるのか? この一文にはいろいろな意味がこめられているのではないでしょうか? おそらく日本の浄土仏教全般において最重要なことばとなるのが「凡夫」ということばです。 法然上人は「仏道修行が無理」な「凡夫」であるという自覚の上で「他力」の「本願念仏」の道を進まれるわけですが、それがどういうことなのか?をひたすらここでも書かせていただいているのです。 そこで、おそらく、書き方が悪いのもありますが、「凡夫」というい概念がもっともわかりにくい概念、または、もっとも「嫌な」概念、であるので、どうも本願念仏が何かわかりにくい、浄土仏教がわかりにくい、となるのではないでしょうか。 結局はただ「仏道修行が無理」だから「簡単な道」を進まれただけなのか? 結局はただ「信じる者は救われる」だけなのか? 簡単な道、方法であっても、信じるだけであっても、それを自らが自覚を持って「行う」というのは、その時点でもう難しいことではあります。 まず、その道や方法や信じるモノが無くてはなりません。 そこに出会う確率で言えば、実はものすごく少ない。 少ない確率で出会ったモノであるので、感謝しなさい、と言うことも我々は言いますが、それよりもまず「凡夫」という状況が何であるのか? 法然上人はなぜ自らを「凡夫」言われたのか? そこが大事なのではないでしょうか? 以前にもそのことは書きましたが、自分自身でも書き方が悪かった、と思います。 簡単に書きすぎました。 「凡夫」の能力的なことだけを書きましたが、「凡夫」というのは能力的なことだけでなく、ありとあらゆる「状況」までを含めた概念となります。 「凡夫」というのは人間を指す言葉でもありますが、「あなたは凡夫です」と言った時に、それは能力だけでなく状況全てが含まれます。 状況とは時間や縁や業などをひっくるめたものです。 能力という意味だけで考えるとわからなくなる。 時間とか縁とか業まで含めないといけないんですね。 「あなたは凡夫です」と言われるとだいたいの人はいい気持ちはしません。 それは能力的なことだけの意味合いで「凡夫」ということばを捉えるからです。 また、その能力的な意味合いでも、「あいつは欲深いから凡夫だ」とか「性格が悪いから凡夫だ」とか、そういう意味合いだけのことばでもないんです。 もっと根源的、生物の機能性、などをひっくるめたことばなんです。 人間だけでなく、ありとあらゆる「有情」つまり「生きとし生けるもの」をひっくるめたことばなんです。 わかりやすくしてしまえば、この世界そのものの性質とでも言えます。 人が「凡夫」でなかった時、それはお釈迦さまが成佛し、完全なる涅槃にはいられるまでの間だけのことだった、と私は考えます。 つまり佛以外は全て凡夫という概念となる。 「凡夫」というのは「良い」「悪い」で言えば「佛の側」から見れば「悪い」、でも人間から見たら判断がつかないものなんです。 僧侶は佛の側から見て悪いと言う。 でも、それも、佛から見れば「悪い」。 私達は絶対の観測者ではないんです。 「これが絶対に正しい」とは言えない。 私達は自分を絶対的な観測者だと思い込んで生きています。 そうでないと生き物として成り立たない。 「凡夫」というのはその絶対の観測者と思い込んでる自分の姿です。 「佛」のみが絶対の観測者であり、それを認めるのが「仏教」となります。 私達は絶対の観測者である、またはそう成れると思っていますが、そうは成れない。 状況や機能や縁がそうさせてくれない、それは私達の事で言えば私達の認識の仕方そのものに必ず制限がある。 そのために佛に成れない。 佛に成れないとは、仏道修行の出来る出来ないではなく、もっと広い意味で成れない、根源的にこの世界そのものの性質として成れない。 法然上人の仰りたい事は、そうであったのではないでしょうか? そして、「凡夫」であると自覚するということは、私達が絶対の観測者であると思うことをやめるということです。 それはつまり「自分というものの姿を受け入れる」ということになります。 単純なことではありますが、それが非常に難しいことでもありますし、それができない状況というのも「凡夫」となるのです。 自覚という行為自体も凡夫が行うわけですから。 ずっとできるわけでも、完全にできるわけでもないんです。 「自分というものの姿を受け入れる」というのは何か? その理解こそが、本願念仏なり善導大師なり法然上人なりの理解となるんではないでしょうか? つづく・・・
by hechimayakushi
| 2014-07-09 09:55
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