2014年 10月 27日
「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」法然上人御歌 前回は「お経は遠い世界の遠いことばではありません。自分自身そのものが、そこにあるのです。」と締めさせていただきました。 今月のことばは『続千載和歌集』に収められている法然上人の御歌です。 まずこの御歌は2つに分けて考えます。 「月影の いたらぬ里は なけれども」を前半とします。 直接的な意味合いは「月の光が届かない場所はない」です。 月影とは阿弥陀佛の本願力=全ての衆生をもれなく救いとる力・はたらきという意味が込められています。 ですので、阿弥陀佛の救いのはたらきは誰にでもどこまでも行き渡っていますよ、というのが前半部分の意味です。 後半の「眺むる人の 心にぞすむ」ですが、ここが大事になります。 眺むるとは、現在の眺めるという意味とは少し違ったようです。 見つめる・注視するという意味合いだったそうです。 ここでは見つめる=知る、とか、気づくという意味合いが込められていると考えられます。 心にぞすむ、は「心にこそ」となります。 そして「すむ」は掛詞となっていると考えられます。 月の光が「澄む」と、阿弥陀佛の救いのはたらき(=光明=月の光)が「住む」です。 「澄む」は「清らか・落ち着く」という意味合いが妥当となります。 「住む」は「在る」とするのが妥当と思われます。 直接的には「月の光が届かない場所はないけども、それを見つめる人の心こそが月の光のように澄み渡っている」となります。 全体の意味合い・意訳をすると「阿弥陀佛の救いのはたらきは誰にでもどこまでも行き渡っているが、それは気がついた人の心にしかありませんよ」となると思います。 この御歌で一つ疑問に思ったことがあります。 それはなぜ月影なのか? 陽の光ではいけないのか? 阿弥陀佛の救いのはたらきのイメージとしては陽の光のほうが妥当な気がしました。 ずっと疑問に思っていたのですが、一つわかったことがあります。 秋が深まるにつれて夜が長くなる。 秋の夜長の真っ暗闇の中でふと気が付くと月の光がある。 真っ暗闇の中では歩くのもおぼつかないが、月の光を頼りに何とか進める。 そんな情景が思い浮かびました。 私達のありのままの姿とは真っ暗闇の中を歩いているようなものです。 どこへ、どう進むべきかもわからない、真っ暗闇の中にいると私達は思っている。 または真っ暗闇とも思わずにただ漠然と進んでいるだけかもしれない。 本来的には月の光は行き渡っている、真っ暗闇と言えどもなんとか歩いていけるのは月の光のおかげだと気がつく。 ふとしたことで、気がつく瞬間がある、気がついたからこそ佛のはたらきのありがたさがわかる。 そういうことではないでしょうか? この御歌にある「眺むる」という言葉についてまた考えていました。 「眺むる」を「気がつく」としましたが、「想う」でもいいのではないでしょうか? ここで思い出したのが観無量寿経・第八像観の一節「この故に汝等、心に佛を想う時、この心、即ちこれ三十二相八十随形好なり。この心佛に作(な)る。この心これ佛なり」です。 心に佛を想う、とは阿弥陀佛の救いのはたらきを想うと同義になります。 その状態が三十二相八十随形好である、と。 これは佛の姿を表す言葉です。 心が佛の姿であり、心が佛に作る(=そうなる)、心は佛である、と。 私はこの観無量寿経の一節をどう解釈するべきかの答えが出せません。 様々な解釈ができる一節です。 ですが、法然上人の御歌の事を考えていたら、この御歌は観経第八像観の一節のことなのではないのかな?とふと思いました。
by hechimayakushi
| 2014-10-27 23:56
| ことば
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