2014年 11月 19日
「阿弥陀仏の真金色の身、円光徹照し端正無比なるを観ずべし。行者等、一切の時処、昼夜につねにこの想をなし、行住坐臥にもまたこの想をなせ。つねに意を住めて西に向かいて、かの聖衆、一切の雑宝荘厳等の相に及ぶまで、目前に対するがごとくせよ、知るべし」『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』(観念法門)善導大師 「意訳」 阿弥陀仏の真金色の身(お姿)、光明は輝き出て遮られることなく、比べるものもないほどの端正な様子を、想い観よ。人々、常にこの想い観ることをしなさい。常に想いを西方極楽浄土に向けて、その有り様を心にとどめおくようにせよ。 先月は法然上人の御歌について書きました。 今月は善導大師の『観念法門』より書き出しました。 先月の法然上人の御歌は月明かりを阿弥陀仏の「はたらき」に例えた御歌でした。 月明かりという表現は日本的な美しさがあるように感じます。 さて、今月のことばでは、阿弥陀仏という「ほとけさま」のお姿を「真金色の身」とされています。 そして、「円光徹照」という難しいことばも出てきます。 これは阿弥陀仏から出た光は遮るものがない、という意味です。 「端正無比」というのは比べようがないほど端正である、素晴らしいお姿である、という意味です。 総じては阿弥陀仏という「ほとけさま」のお姿の素晴らしさを讃えておられることばになります。 法然上人は月明かりを阿弥陀仏の救いの「はたらき」の例え、イメージとして用いました。 善導大師のことばはどうなのか? ただ原文を読んでいくと「観想」という修行方法について書かれているようにしか読めませんが、ただ修行せよというのが善導大師の真意でしょうか? また、阿弥陀仏という「ほとけさま」のイメージされるお姿を思い描き、記憶することが、善導大師の伝えたかったことなのでしょうか? 善導大師の伝えられたことを思い返せば、それらは少し違うような気がします。 それらのことばにも月明かりのごとく、阿弥陀仏の「はたらき」そのものが表されているのだと思います。 「円光徹照」は救いのはたらきを表していると思います。 「端正無比」これが難しいですね。 個人的イメージとしては「阿弥陀仏」の「さとり」の完全さを表しているのではないかと思いっています。 総じては、常に心(記憶領域)に阿弥陀仏の「はたらき」を記憶させなさい、とおっしゃっていると読むのがいいのではないか、と思います。 観無量寿経、善導大師の各書物には「観想」「観想念仏」というものが出てきます。 これらはいわゆる「修行」方法でありますが、阿弥陀仏の救いの「はたらき」を主眼とする見方(=本願念仏・全ての存在が救われ極楽往生が確約されていること)をすると意味合いが変わり、「阿弥陀仏の救いのはたらき」を「知り」「記憶し」「想う」ということになるのではないでしょうか? 仏に想われていることを想う、となるのではないでしょうか?
by hechimayakushi
| 2014-11-19 00:25
| ことば
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