へちま薬師日誌

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2015年 03月 09日

私説法然伝1

東充寺で檀信徒の方々にお配りしている『友引町内会通信』にて連載を開始した『私説法然伝』をこのブログにも掲載することにいたしました。
よろしくお願いたします。

『私説法然伝』(1)はじめに

【『法然(ほうねん)上人(しょうにん)行状(ぎょうじょう)絵図(えず)』(別名を四十八巻伝)によれば建暦二年正月(一月)二十五日正午(新暦では一二一二年二月二十九日)、齢(よわい)八十を数える法然上人は臨終を迎えた。
弟子数名と多数の法然上人を慕う人々に見守られての臨終であったとされる。
慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)(第三代天台座主・最澄の弟子)由来の九条袈裟を身につけられ、お釈迦様の臨終と同じくのお姿であったという。
臨終の直前まで「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」と念仏を申され、「光明(こうみょう)遍照(へんじょう)十方(じっぽう)世界(せかい)念(ねん)佛(ぶつ)衆生(しゅじょう)摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)」の一文をつぶやかれて臨終され、その後も唇と舌は十返動いたとある。
法然上人の臨終に際しては紫雲の出現という奇瑞(きずい・めでたいことの前兆に起こること)があったとされる。
 さて、これらは『法然上人行状絵図』に書かれていることである。法然上人のご生涯を伝える「伝記」としては『法然上人行状絵図』が最も著名であるが、他にもいくつかの「伝記」は存在する。まず『法然上人行状絵図』は法然上人の臨終より百年後、比叡山の舜昌(しゅんしょう)法印が後伏見帝の勅命により編集し,千三百七年から千三百十年にわたり製作したと言われ、おそらくその際にはいくつかの先行して存在していた法然上人の「伝記」を基にしたと思われる。
 いくつか名前を上げると法然上人弟子の隆寛(りゅうかん)著作『知恩講私記』、弟子の源智の『法然上人伝記』(醍醐本)、弟子の親鸞の『西方指南抄』にある『源空聖人私日記』、弟子の信空の弟子である湛空(たんくう)の『法然上人伝法絵』(四巻伝)、琳阿(りんあ)本と呼ばれる『法然上人伝絵』、などがある。
 いずれもそれぞれに特徴があり、どれが最も正しい・正確であるとは言い切れないものである。八百年前の事を何もかも全て正確に知ることはできない。しかし、『私説法然伝』第一回にお伝えしたいことは「法然上人は臨終を迎えて後のわずかな期間の間にいくつかの伝記が成立した」ということである。】
 
法然上人と言う存在は残された弟子、信徒にとってそれほど大きな存在であったということであると同時に、「伝記」を残し伝えなければならなかったということでもあります。
それは法然上人が「成されたこと」が日本の佛教の歴史を変え、流れを変えた、「ターニングポイント」「分水嶺(ぶんすいれい)」と言えるのであり、それが一体どういった事なのか、それをこの『私説法然伝』を通じて明らかにできればと願うものであります。
 ちなみに法然上人の臨終については同時代の天台座主慈円(じえん)の歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』にも記載してあり、法然上人の臨終には特に奇瑞はなく人が沢山つめかけただけ、とあります。                 

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by hechimayakushi | 2015-03-09 01:51 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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