へちま薬師日誌

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2015年 03月 09日

私説法然伝2

『私説法然伝』(2)誕生①

【法然上人は美作国久米南条稲岡庄(みまさかのくにくめなんじょういなおかのしょう・現在の岡山県久米郡久米南町里方)の生まれとされる。長承二年四月七日(一一三三年・新暦五月二十四日)のことだった。父は漆間時国(うるまときくに)。母は秦氏(はたうじ)出身で当時の習慣から名は残されてなく、秦氏と呼ばれている。 漆間時国は押領使(おうりょうし)であった。押領使とは令外(りょうげの)官(かん)の一つである。令外官とは律令制によって制定された各役職に新しく加えられていった役職である。したがって漆間時国は国家=朝廷によって正式に認められた役職につく者であった。押領使とは今で言う地方警察とされているが、実像としては私設の軍事力によって各地方の治安維持を任されていた地方の豪族・武士である。
 漆間氏は元は大分県にある宇佐八幡宮の権大宮司を世襲した漆島(うるしま)氏と言われている。漆島元邦が、封戸郡(ふこぐん)立石に住んで立石を称し、延喜年間に美作国に来住したと伝える。
 元邦の長男盛国が二宮立石家を継承し、次男盛栄は漆間姓を名乗って久米郡稲岡荘に住した。この盛栄の子孫が漆間時国である。仁明天皇の皇子であった源光(みなもとのひかる)の末裔の式部太郎源年(しきぶのたろうみなもとのとし)と漆間元国の娘の子の盛行から六代目の孫にあたると言われるが詳細は不明である。
 母の秦氏は渡来人である職能集団の秦氏一族の出身であるとしかわかっていない。久米南条稲岡庄から北に上ると同じ久米郡の三保村錦織(にしごり)に錦織神社がある。ここは秦氏に因(ちな)む地であり、仁徳天皇の時代に機織(はた)(秦)の姓を賜った際に一族の一部が錦織部(にしごりべ)の長となりこの地に留まったとされる。錦織神社祭神の秦豊永の末裔が母である秦氏と言われている。
 二人の間には長く子が出来ず、久米郡柵原(やなはら)町にある天台宗本山寺の「岩間の観音」に祈願したところ、秦氏は剃刀を飲み込む夢を見て法然上人を身ごもったとされる。
 時国はそれを聞き、生まれてくる子は天皇にも戒を授けるような尊い僧侶になるであろうと言ったとされる。
 秦氏は酒や肉類を避け、深く仏教に帰依したとされる。
 そして長承二年四月七日正午、待望の男子(後の法然上人)が誕生した。
 その時、紫雲が空にたなびき、白い幡(はた)が二流れ飛んできて、時国の館の西にある二股の椋の木の樹の枝に引っかかったと伝えれる。白幡からは鈴の音が鳴り、色鮮やかに輝き、七日たつと天に昇り去ったと言う。】

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by hechimayakushi | 2015-03-09 23:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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