2016年 04月 05日
『私説法然伝』(15)比叡山延暦寺にて③ 先月号では勢至丸こと法然上人が十五歳にして出家され、天台宗の教えを学ばれ、十八歳の時に遁世(とんせい)の為に慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の元へ行かれたところまで書きました。 法然上人の十五歳から十八歳までの間については諸説あり、断言はできかねる部分が多いのですが、大切な事は「誰の下で弟子となったのか?」ということです。 法然上人は勢至丸時代はまず叔父の観覚(かんがく)の下にいます。比叡山延暦寺に登ると源光(げんこう)の下に入ります。そして皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の下へ行き、最後に叡空の下へ入ったというのが『法然上人行状絵図』(四十八巻伝)の説ですが、『法然上人伝記』(醍醐本・勢観坊源智(せいかんぼうげんち)著)によると法然上人の師は十五歳の時より叡空ただ一人とあります。なぜそのように違いがあるのか? 以前にも書きましたが、僧侶とは師の下で出家して初めて僧侶となります。得度という出家するための儀式過程を経て僧侶となります。得度とは簡単に言えば師や先輩僧侶の前で戒を授かり護ることを誓うことです。ですので法然上人も戒壇院にて戒を授けられて初めて僧侶となられました。先月号で「そうであるならば戒師(かいし)は皇円阿闍梨であろうか?『法然上人行状絵図』にはその点の記述は無い」と記述したのには理由があります。 私たち西山浄土宗の僧侶、つまり西山派と呼ばれる法然上人の弟子の證空上人門下は、證空上人が法然上人より授けられた戒(円頓戒(えんどんかい)・大乗菩薩戒)を受け継いでいます。この戒は師資相承(ししそうじょう)、つまり「流れ・系譜」があります。それを戒脈(かいみゃく)と言い、釈尊以来脈々と受け継がれた流れなのです。 『法然上人行状絵図』第十巻に「法然上人は慈覚大師円仁(じがくだいしえんにん)より数えて九代目の円頓戒の正当な後継者」というくだりがあり、法然上人は慈覚大師円仁の戒脈を受け継いでいるということになります。 この戒脈、円頓戒の流れはいくつかあり、慈覚大師正流、恵心流(えしんりゅう)、檀那流(だんなりゅう)、三井流(みついりゅう)などがあります。法然上人が受け継いだのが慈覚大師正流で、最澄→慈覚大師円仁→慈念→慈忍→源心→禅仁→良忍→叡空→法然と相承したと法然作と伝えられる『授菩薩戒儀則(じゅぼさつかいぎそく)』(黒谷古本戒儀)等にあります。 無論、私たちの受け継いだ戒脈も慈覚大師正流の円頓戒となります。 話が非常にややこやしくなりました。戒脈から考えると法然上人の師といえるのは叡空であると言えるのでしょう。源光や皇円は学問や作法の師であったと考える方が自然でしょうし、学問的な師もまた諸説あります。「師」というものは僧侶にとってとても大切な存在です。戒脈を授けられる師が正当の師と言えますが、しかしながら学問や作法を授けられる師もまた師であるのです。
by hechimayakushi
| 2016-04-05 20:04
| 私説法然伝
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