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へちま薬師日誌

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2016年 05月 06日

私説法然伝16

『私説法然伝』(16)法然誕生①

 先月号では勢至丸こと法然上人にとっての「師」について書きました。
 今月号では法然上人にとって最も長く深い関わりをもつことになる慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)(先月号までふりがなを「えいぐう」としていましたが「えいくう」に訂正します)という方について書きたいと思います。

 慈眼房叡空は太政大臣藤原伊通(ふじわらのこれみち)の子と言われていて、幼くして比叡山延暦寺へと登り、天台法華宗の血脈を台上房延快(だいじょうぼうえんかい)から受け、大原別所(おおはらべっしょ・大原三千院)の良忍(りょうにん)に師事して円頓戒(えんどんかい)を授かり、同時に天台浄土教・浄土佛教を学び、その後は比叡山延暦寺西塔北谷に移り源信(げんしん)著作の『往生要集(おうじょうようしゅう)』を講じたと伝えられています。
 生年は不祥ですが、治承(じしょう)四年(一一七九年)没とあり、法然上人が叡空の下へ来たのが久安六年(一一五〇年)のことでした。
 法然上人は叡空に二十五年間仕えることになるのですが、その師弟関係は各伝記を読む限りではあまり良かったとは言えませんが、晩年に法然上人に坊舎(ぼうしゃ)と聖教(しょうぎょう)を譲っていることから、法然上人を認めていたことは事実でしょう。
 叡空の師であった良忍は光静房(こうせいぼう)と号し延久五年(一〇七三年)の生まれで、出身は尾張国知多郡富田(現在の愛知県東海市富木島町)で、領主の秦道武(はたみちたけ)の子として生まれ十二歳で比叡山延暦寺へ登り東塔檀那院(だんないん)の良賀(りょうが)の下で得度し名を良仁と称したが、大原隠棲後に良忍と改名したといいます。大原隠棲は良忍二十三歳の頃とされ、来迎院(らいこういん)と浄蓮華院(じょうれんげいん)を創建。毎日お念佛を六万遍唱えた念佛行者で、永久五年念佛行の最中に阿弥陀如来より直授を受け一人の念佛が万人の念佛と相則融通(あいそくゆうずう)する融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを体得して、その後は念佛勧進(ねんぶつかんじん)に勤めたと伝えられています。現在の融通念佛宗の宗祖となっています。
 つまり叡空は念佛・浄土仏教を良忍より受け継いだ僧侶であったと考えられます。法然上人は叡空より良忍から伝えれた円頓戒のみならず念佛・浄土仏教の教えを伝えられることになったと考えることが出来ます。
 叡空が法然上人と対面した時、叡空は法然上人に「法然」という名を与えることになったのです。

 【慈眼房叡空と対面した勢至丸は自らの志しを述べた。父の遺言についてと伝えられる。そして隠遁の志しの深いことを叡空に伝えた。叡空はいたく感心そし、その志しをたいそう褒めた。叡空は「法然道理(ほうねんどうり)の聖(ひじり)」と勢至丸を評している。そして「法然房」という房号を与え、比叡山におけるはじめの師の源光の「源」に叡空の「空」をとり「源空」という僧名を与えたのである。「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」法然の誕生である。】


by hechimayakushi | 2016-05-06 15:47 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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