2016年 07月 10日
『私説法然伝』(18)法然誕生③ 先月号では黒谷に隠遁された法然上人と、師となった叡空(えいくう)との論争の様子などを書きました。ここでの論争は主に天台宗においての戒体(戒の実体・戒を受けることによって止悪(しあく)するはたらき)についてでした。この場合の論争はあくまで天台宗における戒体の理解についてでした。叡空は法然上人に対して自身の誤りを認め謝罪していますが、法然上人の優秀さを表現したかった一節かと推察されるところです。 【保元(ほうげん)元年(一一五六年)のことである。法然上人も二四歳になっていた。黒谷に隠遁してから七年ほどの月日が流れていた。そんなある日のこと、法然上人は師の叡空に暇(いとま)を願い出る。求法(ぐほう)、つまり佛教における「さとり」を求めること、そのために嵯峨の清涼寺(せいりょうじ)へ詣でたいと法然上人は願ったのだ。嵯峨の清涼寺は「嵯峨釈迦堂」の名で広く信仰を集めていた。「三国伝来(さんごくでんらい)の釈迦像」、東大寺で学んだ奝然(ちょうねん)が宋へ渡りインドの優填王(うでんおう)が釈尊在世の姿を写し造らせたという釈迦像を模刻した釈迦像が安置されていたことから嵯峨釈迦堂の名で親しまれていたのである。 何故法然上人は嵯峨の清涼寺へ行かなければならなかったのか?法然上人は黒谷にて経蔵(きょうぞう・報恩蔵)にこもり、ひたすら一切経を学んでいた。それはただひたすら「さとり」を求めてのことであった。 叔父の観覚の下へ入り、比叡山へ登ってから十数年がたっていた。その時に法然上人の心情がどのようなものであったのかは今となってはわからないが、嵯峨の清涼寺へどうしても行かなければ何ともならなくなってしまったのではないだろうか? 叡空は法然上人に嵯峨の清涼寺へ詣でることを許可し、法然上人は数年ぶりに比叡山を下ることになったのである】 法然上人は黒谷に隠遁されてからは経蔵(経典・書物を収めたところ)にこもり、一切経(佛教の経典の全てを意味する)をひたすら学んでおられたと伝えられています。佛教の実践過程、つまり「さとり」へ到達するために必要不可欠となるのが「智慧(ちえ)」となります。この「智慧」には「聞慧(もんえ)・思慧(しえ)・修慧(しゅうえ)」の三段階があり、聞は釈尊の教えを聞くことで、つまりは釈尊の教えを記された経典を学ぶこと、思慧はその教えを思惟すること、修慧は得られた智慧の実践とでも言うべきものです。これをまとめて「聞思修(もんししゅ)」とも言います。法然上人は経蔵にて「聞慧」を求められていたのです。その経蔵を出て清涼寺へと行こうと決意されたところの真意は一体何だったのでしょうか?
by hechimayakushi
| 2016-07-10 22:29
| 私説法然伝
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