2017年 01月 08日
『私説法然伝』(24)法然誕生⑧ 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。 【保元元年(一一五六年)七月二日鳥羽法皇が崩御(ほうぎょ)される。同月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使(けびいし)の平基盛(たいらのもともり)らが召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。同月八日には、忠実・頼長親子が荘園から兵を集めることを禁止する後白河天皇の綸旨(りんじ)が諸国に下されると同時に、高階俊成(たかしなとしなり)と源義朝(みなもとのよしとも)が東三条殿を差し押さえた。頼長卿を謀反人としたのである。藤原摂関家の氏の長者が謀反人とされるのは前代未聞のことであった。 それらは後白河天皇の綸旨・勅命でなされたが、その背後には側近の信西入道がいたとされる。同月九日の深夜、崇徳上皇は鳥羽離宮田中殿を脱出し、白河北殿へと入った。打つ手がなくなった頼長卿も同月十日白河北殿へと入る。もはや崇徳上皇の下で挙兵するしか事態を打開する手段がなくなったのである。しかし私兵しかいない崇徳上皇側と後白河天皇側との兵力の差は歴然としていた。崇徳上皇は平家棟梁たる平清盛(たいらのきよもり)の支持を期待していたとされる。当時の武家における最大勢力が平家であった。しかし平清盛は後白河天皇側へ付いてしまう。この時点で趨勢は決まったも同然であった。同月十日、後白河天皇の召集に応じて後白河天皇の本拠地高松殿に警護役であった源義朝をはじめ、平清盛ら主だった武士が集まる。軍議において信西入道、源義朝らが夜襲を主張し、十一日未明には白河北殿を急襲する。崇徳上皇側の源為朝(みなもとのためとも)らの活躍もあり、後白河天皇側は攻めあぐねるが、白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち、延焼させ白河北殿を落とすことに成功した。 崇徳上皇、頼長卿らは逃亡し、忠実卿も宇治より南都へと逃亡する。その日のうちに戦功褒賞と忠通卿を氏の長者とする宣旨が下されたが、氏の長者の地位は藤原摂関家が決めるものとしてこれを辞退している。同月十三日には崇徳上皇が異母弟覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼るが断られ、源重成(みなもとのしげなり)監視下に置かれる。頼長卿は首に矢傷を負いながらも南都まで逃げ延びるが、忠実卿に会うことすら拒絶され絶命する。同月十九日謀反人とされた忠実卿の持つ所領の没収を避けるため、忠通卿は先に下された氏の長者任命の宣旨を受け入れた。同月二十三日に崇徳上皇は讃岐配流となった。 後に保元の乱と呼ばれる戦いは終わり、結果的に藤原摂関家の決定的な没落と、武家の躍進、そして後白河天皇を中心とする新体制がスタートすることになるのである。】
by hechimayakushi
| 2017-01-08 00:08
| 私説法然伝
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