2018年 01月 12日
『私説法然伝』(36)王家と平家の時代① 先月号では法然上人の模索そして『観経疏(かんぎょうしょ)』へとつながる流れについて書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。 【法然上人が経蔵にて籠もられ極楽へのの道を求められている時、世の中もまた模索の時代であった。保元元年(ほうげんがんねん)(一一五六年)の争乱によって藤原摂関家の権勢はほぼ失墜した。その後に台頭するのが軍事貴族、つまり武家である。後の世に院政期と言われる時代は突如として始まったわけでもなく、突如として終わったわけでもない。武家の時代となる、と言ってもある日突然に始まるわけではないのである。保元元年の争乱の後、徐々に変化が始まっていった。 保元の乱の最終的な勝利者は後白河天皇であった。後白河天皇は鳥羽法皇と待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間に生まれた六番目の子である。兄である崇徳上皇と「治天の君」の座を争ったのが保元の乱であったが、後白河天皇は治天の君として何をしようとしていたのだろうか?保元元年九月十八日保元元年令と呼ばれる七か条の宣旨を下した。第一条には「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」ある。九州とは全国の事であり、全国はただ一人「治天の君」のものであり、王命以外に私的な威光を示すことはできない、つまりは各地にある荘園という私的な領地も含む日本国の土地の全ては最終的に「治天の君」である後白河天皇のものであるという宣言である。これを「王土思想」と言う。長く続けられてきた「荘園整理令」の一つでもあり、後白河天皇の親政の開始の宣言でもある。この宣旨に関わったのが信西入道(しんぜいにゅうどう)である。信西入道は学者の家系の出で、元は藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言い、幼くして父を亡くし高階(たかしな)家に入って高階通憲となりその才覚を現す。しかし高階家では学者としての出世は叶わず、院の近臣・実務官僚となりたくても当時は勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原家がその座を独占していた。自らの人生に失望し、出家の気持ちが芽生えた通憲は、当時日本有数の大学者と名高い藤原頼長卿とも面談している。その才覚を惜しんだ頼長卿からは出家を思いとどまるように願われるが「自分は運がなく出家の道を選ぶが、頼長卿はどうかそんな事はなさらぬよう」と伝え、頼長卿は涙を流したと日記にある。その才覚を惜しんだのは鳥羽法皇も同じであり、思いとどまるように願ったが、通憲は出家をし信西入道となった。 しかし出家し出世の道は諦めたものの、その才覚と辣腕を振るう事を諦めたわけではなかった。出家し墨染めの衣を身に着けていても、心まで染まるつもりはない、と歌まで残している。鳥羽法皇のブレーンであった藤原顕頼没後には信西がブレーンの座に入る。そして保元元年の争乱が始まったのである。】
by hechimayakushi
| 2018-01-12 00:04
| 私説法然伝
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