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カテゴリ:私説法然伝( 36 )


2018年 01月 12日

私説法然伝36

私説法然伝』(36)王家と平家の時代①

 先月号では法然上人の模索そして『観経疏(かんぎょうしょ)』へとつながる流れについて書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【法然上人が経蔵にて籠もられ極楽へのの道を求められている時、世の中もまた模索の時代であった。保元元年(ほうげんがんねん)(一一五六年)の争乱によって藤原摂関家の権勢はほぼ失墜した。その後に台頭するのが軍事貴族、つまり武家である。後の世に院政期と言われる時代は突如として始まったわけでもなく、突如として終わったわけでもない。武家の時代となる、と言ってもある日突然に始まるわけではないのである。保元元年の争乱の後、徐々に変化が始まっていった。
 保元の乱の最終的な勝利者は後白河天皇であった。後白河天皇は鳥羽法皇と待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間に生まれた六番目の子である。兄である崇徳上皇と「治天の君」の座を争ったのが保元の乱であったが、後白河天皇は治天の君として何をしようとしていたのだろうか?保元元年九月十八日保元元年令と呼ばれる七か条の宣旨を下した。第一条には「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」ある。九州とは全国の事であり、全国はただ一人「治天の君」のものであり、王命以外に私的な威光を示すことはできない、つまりは各地にある荘園という私的な領地も含む日本国の土地の全ては最終的に「治天の君」である後白河天皇のものであるという宣言である。これを「王土思想」と言う。長く続けられてきた「荘園整理令」の一つでもあり、後白河天皇の親政の開始の宣言でもある。この宣旨に関わったのが信西入道(しんぜいにゅうどう)である。信西入道は学者の家系の出で、元は藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言い、幼くして父を亡くし高階(たかしな)家に入って高階通憲となりその才覚を現す。しかし高階家では学者としての出世は叶わず、院の近臣・実務官僚となりたくても当時は勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原家がその座を独占していた。自らの人生に失望し、出家の気持ちが芽生えた通憲は、当時日本有数の大学者と名高い藤原頼長卿とも面談している。その才覚を惜しんだ頼長卿からは出家を思いとどまるように願われるが「自分は運がなく出家の道を選ぶが、頼長卿はどうかそんな事はなさらぬよう」と伝え、頼長卿は涙を流したと日記にある。その才覚を惜しんだのは鳥羽法皇も同じであり、思いとどまるように願ったが、通憲は出家をし信西入道となった。
 しかし出家し出世の道は諦めたものの、その才覚と辣腕を振るう事を諦めたわけではなかった。出家し墨染めの衣を身に着けていても、心まで染まるつもりはない、と歌まで残している。鳥羽法皇のブレーンであった藤原顕頼没後には信西がブレーンの座に入る。そして保元元年の争乱が始まったのである。】

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by hechimayakushi | 2018-01-12 00:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 12月 14日

私説法然伝35

『私説法然伝』(35)極楽への道⑩

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」の『往生要集』に導かれるように法然上人は「念佛」の模索を始められたことについて書きました。今月はその続きになります。

【法然上人の模索の過程に関して『法然上人行状絵図』によると、恵心僧都源信の『往生要集』は善導大師(ぜんどうだいし)の「注釈」を「指導の書」としており、法然上人はその「注釈書」である『観経疏(かんぎょうしょ)』(観無量寿経疏・観無量寿経の注釈書)を読まれた、とある。『往生要集』から善導大師の『観経疏』へという過程ということである。しかし、その流れで後の法然上人の到達されたところである「本願念佛(ほんがんねんぶつ)」(佛の本願により往生する)へは到達できるのであろうか?おそらく一本道では到達できなかったであろう。法然上人は天台の教えをはじめとして諸宗の教えに通じておられた。『往生要集』だけが「先達の書」ではなかったと考えられている。念佛者であった永観禅師(ようかんぜんじ)は『往生拾因(おうじょうしゅういん)』においてひたすら称名の念佛こそが勝れているとし、画僧として有名な珍海も称名は「正中の正因」としている。だがいずれも「凡夫」が「凡夫」のままで救われるということを示していない。法然上人の到達点はそこにはなかった。愚勧住信(ぐかんじゅうしん)の『私聚百因縁集(しじゅひゃくいんねんしゅう)』には法然上人三十三歳の時に専修念仏の道へ進まれたとある。永万元年(一一六五年)の頃である。法然上人が『往生要集』を始めとして、様々な「念佛の道」に出会われ、そして『観経疏』と本質的に出会われていったのが法然上人三十三歳ごろであったのではないだろうか?それはまだ到達点とは言えないにしろ、法然上人に示された「極楽への道」であったのではないか。経蔵に籠もり苦しみの中のでの模索であったが、確かに法然上人は一つの到達点へと近づいていったのである。】


法然上人は『法然上人行状絵図』に記された「過程」でだけではなく、実際には様々な書物などを通して模索を重ねられたと言えます。永観禅師『往生拾因』などはその代表的なものだと言えます。そして善導大師の『観経疏』という圧倒的な存在とも言える書物に立ち向かっていかれた、と言うと大げさかもしれませんが、法然上人にとってはまさに人生をかけて「極楽への道」を歩まれていたのがこの時期であったのです。

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by hechimayakushi | 2017-12-14 23:16 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 11日

私説法然伝34

『私説法然伝』(34)極楽への道⑨

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」という方の書かれた『往生要集(おうじょうようしゅう)』について、また源信の始めた念佛結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と「臨終行儀」などについて書きました。今月はその続きになります。

【恵心僧都源信が目指した「念佛」とは一体何であったのだろうか?源信の考えに従って作られた『往生要集』と「二十五三昧会」の二つがその両輪である。そして源信は念佛の中で「理観(りかん)の念佛」(念佛を通して空を覚り三昧に至る)を理想とし、それが出来ない者は「色相観(しきそうかん)の念佛」(阿弥陀佛の姿を想い描く)を行い、それが出来ない者は阿弥陀佛に深く帰依して極楽浄土へ往生したいという「念」(菩提心)を元にして称える「称名(しょうみょう)の念佛」があるとした。源信にとっての念佛はあくまで天台宗の思想に基づくものであり、称名の念佛はあくまで付随的なものであり、天台的な捉え方であったと言える。法然上人もまた『往生要集』を読んだ。後に『往生要集』に導かれて浄土佛教の道へと入ったと述べられている。理観の念佛を至上とする『往生要集』と後の法然上人の思想は相容れない。しかし『往生要集』の「思想」が持つ構造、「難」から「易」というところに着目されたのだと考えられる。常識的に考えれば、簡単な事からはじめてより難しい事を習得していくことが一つの「道」である。しかし法然上人はそこに疑問を持たれたのだと言える。理想的だが難しく実現不可能な方法を源信が伝えたかったのではない、もっと根本的に違う何かが有るのではないか?と法然上人は考えられたのではないだろうか?そして『往生要集』をスタートとして、法然上人は様々な「念佛」を模索されていくのである。】

法然上人は長い時間をかけて「念佛」とは何か?を模索されることになるのですが、そのスタートラインと言えるのが『往生要集』となったのです。法然上人は『往生要集』とそれに基づく「二十五三昧会」で行われている事に着目されたのではなく、源信僧都の思想の展開の構造に着目されていたことが大切なポイントだと思います。そして法然上人は『往生要集』の構造理解を通して浄土佛教というもの、または佛教全体を見直されようとしていたのではないでしょうか?

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by hechimayakushi | 2017-11-11 16:36 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 14日

私説法然伝33

『私説法然伝』(33)極楽への道⑧

【恵心僧都源信、寛和(かんな)元年(九八五年)に『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を撰述された。この書物がどうして日本人の精神性に影響をあたえるほどの書物であったのか?まずは『往生要集』がどのような書物であったのかをまとめる必要がある。『往生要集』は十門つまり十の構成となっており、約百六十以上の経典などを選び出し、引用し、文章を構成している。その構成は厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・極楽証拠・正修念佛・助念方法・別時念佛・念佛利益(ねんぶつりやく)・念佛証拠・往生諸業・問答料簡の十の章段となる。その内容を簡潔に言えば「この迷いの世界を離れて阿弥陀佛の世界=西方極楽浄土に生まれるには正しい念佛が必要である」ということになる。今日において『往生要集』と言えば「地獄」の描写が最も有名である。これは厭離穢土の章段に仔細(しさい)に記されている。苛烈(かれつ)極まる地獄の姿と対照的に西方極楽浄土の素晴らしさが強調され、そして念佛によって西方極楽浄土へと往生する、その念佛とはどのようなものかと源信は『往生要集』に全てを集約したのである。この書物が当時の人々に与えた影響は大きく、特に「地獄」のイメージを日本人に植え付けたのは『往生要集』によるところが大きい。また、日本のみならず当時の宋の国へと送られ絶賛されている。
 そして『往生要集』を基として「念佛結社」が作られるようになった。「念佛結社」とは東晋の僧侶慧遠(えおん)によって結成された「白蓮社(びゃくれんしゃ)」がそのルーツと言えるもので、同士が集まって念佛の実践を誓い、念佛を行うものであった。これを中国における浄土佛教の始まりともされている。『往生要集』の中では「臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)」として記された念佛の実践方法を基にして、葬送儀礼を追加したものが源信の打ち立てた念佛結社であり、それを「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と言う。この「二十五三昧会」を元に各念佛結社が作られていったのである。それはつまり念佛の実践が広がり、根付いていたったことと言える。 
この「二十五三昧会」とは、源信とその法友慶滋保胤ら二十五名の僧侶が横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)にて毎月十五日羊(ひつじ)の時刻、午後二時ごろ集まり、法華経の講義の後に回向と起請文が読まれ、その後は翌朝の辰(たつ)の時刻つまり午前八時までひたすら念佛三昧を目指すというものであった。そして結社の構成員・結衆は互いに扶助し規律を守り、病を得た者がいれば往生院という阿弥陀佛像が安置された堂に移し、病人の看護をし、西方に向けられた阿弥陀佛像の後ろに病人を置き、阿弥陀佛と病人を五色の旙(はた)(五つの色の布)で結び、西方極楽浄土へ往生する想いをこらさせる。往生を遂げた者は同じ墓所へ埋葬し、念佛会(ねんぶつえ)を行ったという。】

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by hechimayakushi | 2017-10-14 20:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 11日

私説法然伝32

『私説法然伝』(32)極楽への道⑦

 先月号では「比叡山延暦寺にはじまった念佛の流れから生まれでた空也上人」について書きました。今月はその続きになります。

【空也上人が活躍する時代にもう一人比叡山延暦寺における浄土仏教・念佛の流れにおいて最重要人物となる僧侶が生まれた。その僧侶こそが恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。天慶(てんきょう)五年(九四二年)大和国北葛城郡当麻にて、父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に生を受けた。幼くして父と死別し、信仰心の篤い母によって育てられる。九歳にして比叡山延暦寺へと登ったと伝えられている。師は天台宗中興の祖と誉れ高い慈恵大師良源(じけいだいしりょうげん)僧正である。ありとあらゆる学問を学び、それら全てを吸収し、咀嚼する才覚が間違いなくあったと言えるのが恵心僧都源信という人である。師であり学僧としても名高い良源は己の持てる全てを源信に注ぎ込んだと言っても過言ではない。源信は母の諌めもあってか比叡山においての名利栄達の道を捨て去り、横川(よかわ)にある恵心院(えしんいん)にて隠遁(いんとん)し、ひたすら求道の一生を送ることになる。そして四十四歳の時に『往生要集(おうじょうようしゅう)』という書物を完成させた。日本人の精神性に多大な影響を与えることになった偉大なる書物である。】

 空也上人の時代はまさに浄土仏教・念佛の教えが日本中に広まるはじまりの時代と言えます。空也上人が活躍されている同時代に恵心僧都源信が生まれました。幼いころに父と死別し、比叡山へと登られたのは法然上人と通じるものがあります。
 有り余る才覚と他を寄せ付けぬほどの勤勉さで勉学に励み、『今昔物語集』には「三条の太后の宮の御八講』(法華八講・法華経の講義を行う法会)に呼ばれたとあり、また「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」(天台宗の僧侶としての最終試験のようなもの)では問題に対するその答えの素晴らしさなどにより、その名声は広く知られていましたが、布施で源信が手に入れた品々を母に贈ったところ「遁世修道こそが我が願い」という言葉と共に布施の品を送り返されたと言い、また源信自身の思う所によって比叡山の三塔の一つの横川というところにある恵心院で隠遁することになったのです。

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by hechimayakushi | 2017-09-11 00:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 07日

私説法然伝31

『私説法然伝』(31)極楽への道⑥

 先月号では「日本における念佛のはじまり」について書きました。今月はその続きになります。

【比叡山延暦寺にて確立された「山の念佛」とはどのようなものであったのだろうか。源為憲(みなもとのためのり)が記した『三宝絵詞』によれば「秋八月の風涼しい時、中旬の月の明るい頃、十一日の暁から十七日の夜に至るまで、不断に行じられる」とあり、また「身は常に阿弥陀佛を廻(めぐ)るから、身の罪はことごとく無くなってしまう。口には常に経を唱えるから、口の咎(とが)が消えてしまう。心は常に佛を念じるから、心の過ちはすべて尽きてしまう」と記されている。そして重要となるのが「阿弥陀経に、若(も)し一日、若し二日、若し三日、乃至七日、一心不乱臨終の時に心顛倒(てんどう)せずして、即ち極楽に生まれると。七日間に限るには、この経説に依る」とある。身と口と心、すなわり私たちの身体と行いが作り出す「罪」を念佛によって消し去ることによって極楽浄土へ生まれる事ができるようになるという理解がなされていたのである。この比叡山における念佛の流れの中から生まれでたのが空也(くうや)上人と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。空也上人は今日では空也上人像が有名である。平安時代中頃の僧侶で、阿弥陀聖(あみだひじり)とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれる。延喜二十二年(九二二年)尾張国分寺にて出家し、在俗の僧侶として諸国を廻り「南無阿弥陀佛」と称えながら道路や橋、寺院建立などの社会事業を行ったとされる。やがて比叡山延暦寺にて授戒し「光勝」という名を授かる。六波羅蜜寺の本尊十一面観音菩薩立像は天暦五年(九五一年)に空也上人が西光寺を創建した際の本尊とされている。鴨長明(かものちょうめい)編の『発心集(ほっしんしゅう)』には「これを我が国の念仏の祖師と申すべし」と空也上人についての記述がある。空也上人は鉦(かね)や太鼓などの楽器を用いた踊り念仏をおこなったと伝えられる。市井の中において口称の念佛を人々に伝えられたのである。その影響は後世の念佛者たちにも与えている。】

 比叡山延暦寺においてはじまった浄土仏教の流れ、それを「山の念佛」とも言いますが、その中で様々な僧侶たちによってその流れがさらに発展していくことになります。特に有名なのが空也上人と恵心僧都源信です。空也上人について知る人は少なくとも、京都の六波羅蜜寺に伝わる康勝作の「空也上人像」を知る人は多いでしょう。空也上人は「聖(ひじり)」と呼称される、諸国を廻りながら勧進(かんじん)(布教活動と寄付の募集活動)を行う僧侶でありました。

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by hechimayakushi | 2017-08-07 22:55 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

私説法然伝30

『私説法然伝』(30)極楽への道⑤

 先月号では「阿弥陀佛と本願」について書きました。今月はその続きになります。

【日本に佛教が公(おおやけ)に伝わったのは欽明天皇(きんめいてんのう)の時代、壬申(じんしん)の年・五五二年とされている。それ以前の戊午(つちのえうま)の年・五三八年説もある。また渡来人によって私的に伝来していたという説もある。いずれにせよ欽明天皇の時代六世紀なかば頃にもたらされたものと考えられている。その中にもちろん阿弥陀佛と、その信仰の中心となる浄土三部経(じょうどさんぶきょう)をはじめとする各種の経典類がもたらされたと考えられている。来世への往生という考え方は早くから注目されており、阿弥陀佛信仰・西方極楽浄土への往生思想(二つを合わせて「浄土仏教」とする)は日本において広まりを見せていた。本格的な研究のはじまりは奈良時代からであり、南都の各宗派で多数の学僧が経論を学んだ。日本における浄土仏教の確立という観点で言えば平安時代のはじまり、桓武天皇の時代からと言える。それは最澄と空海という日本佛教改革者の登場によってもたらされる。二人は中国で学び、帰国して日本の佛教の新たな道を切り開いた。その二つの流れが天台宗と真言宗であり、それぞれに浄土仏教の思想が取り込まれている。その中で最も重要となるのが天台宗における浄土仏教の思想と言える。最澄は修行法の中の一つに常行三昧(じょうぎょうざんまい)と呼ばれる修行法を設定した。それは常に行道をしながら口に南無阿弥陀佛と称え、心に阿弥陀佛を思い浮かべる、というものであった。これが日本天台宗・比叡山延暦寺における「念佛」のはじまりとなり、それを発展させたのが最澄の弟子の円仁(えんにん)である。円仁は最澄と同じく唐に渡り、様々な困難や出会いにより五台山(ごだいさん)へと登る。そこで出会ったのが唐の僧侶・法照(ほっしょう)により初められた五会念佛(ごえねんぶつ)であった。五会念佛とは、五種類の音声からなる音楽的な称名の念佛である。日本へと戻った円仁は比叡山に常行三昧堂を建立し、五会念佛三昧法として、念佛三昧行・不断念佛(ふだんねんぶつ)を行うようになった。これが後に「山の念佛」と呼ばれる比叡山における浄土仏教の確立と言えるものである。】
 
 日本へと佛教が伝来した時点での佛教の広まりであったり、人々の信仰がどのような形であったのかは、はっきりとしないことも多々あります。しかし、早い時期から往生思想、兜率天と呼ばれる弥勒菩薩の浄土への往生思想などが信仰されていたことからもわかりますように、日本の人々にも「往生」というものが受け入れられていたことが理解できます。また、奈良時代には南都の佛教、平安時代には最澄と空海によって切り開かれた佛教、特に最澄の開いた比叡山延暦寺における「念佛」が日本における念佛の形を決定づけることになったのです。最澄の弟子の円仁は、実に数奇な人生を送られた方です。『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』という世界三大旅行記の著者として世界的にも有名な僧侶なのであります。

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by hechimayakushi | 2017-07-13 00:21 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 12日

私説法然伝29

『私説法然伝』(29)極楽への道④

 先月号では「念佛」について書きました。今月はその続きになります。

【阿弥陀佛への念佛とは何か?それについて考えるにはまず阿弥陀佛とは一体どのような佛であるのかを知らなければならない。阿弥陀佛とは、ある王が無上のさとりを得るために、世自在王佛(せじざいおうぶつ)という佛の弟子となり法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となった。法蔵菩薩は全ての存在を救い取るという四十八の「本願(ほんがん)」(佛になるためにたてる誓い)をたて、途方もなく長い時間をかけて修行を重ねて、全ての「本願」を成就して阿弥陀佛となった。阿弥陀とはアミタ=無量の意味を持つ。阿弥陀佛の別名には無量寿佛(むりょうじゅぶつ)と無量光佛(むりょうこうぶつ)とがある。無量寿とは無限の寿命を持つという意味になり、無量光とは無限の光を持つという意味となる。無限の寿命は「本願」=救いは時間的制約を受けない、つまりいつでもいつまでも救い取られていることを示す。無量光の光は範囲を示し、全ての存在を照らす、つまり「本願」=救いに範囲の限定がないことを示している。阿弥陀佛とは法蔵菩薩の「本願」=全ての存在を救い取ることが成就したことを現した名前を持つ佛なのである。
では「本願」=全ての存在を救い取るということはどういうことか?阿弥陀佛は、はるか昔に本願成就され西方極楽浄土という名前の佛の世界を建立され説法を続けられているという。全ての存在が、その阿弥陀佛の世界へ往き生まれ、阿弥陀佛のもとで佛と成っていくことが「本願」=全ての存在を救い取るということである。
阿弥陀佛への念佛の「本質」は阿弥陀佛の「本質」とも言える「本願」への念佛とも言える。それはつまり「西方極楽浄土へ往き生まれることを願う」ということでもある。
では人々はどのようにそれを願っていたのであろうか?また、どうして願わなければなかったのであろうか?そして法然上人はいかにして「本願」と向き合う事になったのであろうか?】
 
 現在の我々は「阿弥陀佛」に関しても「念佛」に関しても簡単にその詳細を知ることができます。しかし法然上人の時代は大変な苦労を重ね、勉学を重ねて、一つ一つ知識を重ねて、ようやくたどり着けたのでしょう。また、今現在と違って日本で手に入る情報にも限りがありました。その中で人々がどのようにして阿弥陀佛や念佛と向き合っていたのかを見ていくことによって、法然上人がどのようにして「本願」と出会い、向き合っていかれたのかが理解出来るのではないでしょうか?

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by hechimayakushi | 2017-06-12 14:23 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 05日

私説法然伝28

『私説法然伝』(28)極楽への道③

 先月号では法然上人と師の叡空との論争について書きました。今月はその続きになります。

【念佛とは何か?まず言葉として「念」と「佛」が組み合わさっている。ここでの「念」とは念じること。念じるとは常に心に思うこと。常に心に思うとは、記憶し忘れないという事である。常に心に佛を思う、記憶し忘れないという「行い」が本来的な意義であった。念佛の歴史は古く、元来は釈尊(ブッダ)に対する「念佛」であった。釈尊に対しての佛弟子達の「念佛」は「南無佛(なむぶつ)」と唱え称(たた)えたものとされる。それはあくまで追憶であったり帰依であったり讃嘆(さんたん)の意味があったであろう。やがて釈尊の入滅(にゅうめつ)と共に「念佛」の持つ意義が変化していく。人間としての釈尊への「念佛」から佛教の根本的なもの「法」(教え・真理)としての釈尊への「念佛」へと変化していったである。特に「佛」は人々の苦悩をよくすくい取る「大慈悲(だいじひ)」をそなえている、その大慈悲を自分自身も実践しなければならないという気持ちを目指すための「念佛」となっていたとされる。やがて大乗佛教の発展により念佛の対象となる佛が広がっていった。「阿弥陀佛」への「念佛」の起こりである。
では阿弥陀佛への「念佛」とは何であるのか?】
 
 先月に書いた法然上人と師の叡空との論争の火種は「念佛」についてでした。
 この「念佛」とは一体何であるのか、と掘り下げていかなければ法然上人と叡空の論争の中身が見えてこないと思います。
 「念佛」という言葉を分解して考えてみますと、念には記憶し忘れないという意義が本来的にあり、佛とは元々は釈尊を指していましたが釈尊入滅後は「人間」釈尊からその教えそのものを念じていくことに変化したと考えられています。
 そして佛教の歴史が進むにつれて「佛」というものが教えに対する解釈の「深度」が深まるにつれ多様性を増していきました。そしてその「佛」に対して「念佛」もまた「深度」を増していったと考えています。
そこで登場しますのが「阿弥陀佛」となるのです。「阿弥陀佛」を「念佛」する、現在の常識で言えば当たり前のように思われますが、それがどのようなものであったのか?そこが重要となってくるのです。
 法然上人が新しい方法論を模索される中で乗り越えなければならなかったのがこの「阿弥陀佛」と「念佛」となるのです。

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by hechimayakushi | 2017-05-05 19:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 10日

私説法然伝27

『私説法然伝』(27)極楽への道②

 先月号では法然上人が経蔵に籠もられて、自らを「三学の器(うつわもの)に非ず」と内省されていくことについて書きました。今月はその続きになります。

【別の方法論を求められた法然上人だが、一体どのようにその模索をされたのだろうか?
 『法然上人行状絵図』にはある日、法然上人が師の叡空と論争を行った記述がある。称名念佛(しょうみょうねんぶつ)と観想念佛(かんそうねんぶつ)の優劣についてである。叡空は自らの師の良忍(りょうにん)の説をもって観想念佛が優れていると言い、法然上人は称名念佛こそが優れていると言った。法然上人が「良忍上人は我々より先にお生まれになった方ですので」と言ったところ叡空はたいそう立腹したとある。
 叡空との論争から読み取れる事は多い。まず叡空は念佛の人であった。叡空の師の良忍は元は比叡山東塔の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で不断念佛行(ふだんねんぶつぎょう)を修行する堂僧で、後に一人の念佛が万人の念佛に融通し合うという融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを開眼し現在の融通念佛宗の開祖となられた方である。
 叡空自身もまた師より相承した「念佛」の教えを守っていた。しかし法然上人はその「教え」に対して反発したのである。ではその「教え」とは何であろうか?
 それを知るにはまず「念佛」という言葉がキーワードとなるのである。】
 
 以前にも法然上人は師である叡空と論争を行ったことを書きましたが、ここでもまた論争を行っています。そしていつも師の叡空は法然上人に対して腹を立てていますが、それは何故でしょうか?
 まず念佛の優劣についてがありますが、詳しい事は次号以降に書いていきたいと思います。ここで重要なポイントとなるのは叡空は師の良忍の「教え」を元にして法然上人と論争を行っているところです。
 それに対して法然上人は自らが考えた結論を元に論争を行っています。そして叡空に対して「良忍上人は先にお生まれになった方」と言いました。これは法然上人の姿勢を現している言葉となります。つまりは師の「教え」をただ守り伝えることを自分はしない、学んだ結果を元に新たな「教え」にたどり着きたいという事を言いたかったのではないでしょうか?「新たな方法論」にたどり着くには師の「教え」では不可能であるという事を示しているのです。
叡空だけでなく師の良忍までを否定するかのような法然上人に対して叡空は怒ったのです。

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by hechimayakushi | 2017-04-10 00:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)