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カテゴリ:私説法然伝( 32 )


2017年 09月 11日

私説法然伝32

『私説法然伝』(32)極楽への道⑦

 先月号では「比叡山延暦寺にはじまった念佛の流れから生まれでた空也上人」について書きました。今月はその続きになります。

【空也上人が活躍する時代にもう一人比叡山延暦寺における浄土仏教・念佛の流れにおいて最重要人物となる僧侶が生まれた。その僧侶こそが恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。天慶(てんきょう)五年(九四二年)大和国北葛城郡当麻にて、父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に生を受けた。幼くして父と死別し、信仰心の篤い母によって育てられる。九歳にして比叡山延暦寺へと登ったと伝えられている。師は天台宗中興の祖と誉れ高い慈恵大師良源(じけいだいしりょうげん)僧正である。ありとあらゆる学問を学び、それら全てを吸収し、咀嚼する才覚が間違いなくあったと言えるのが恵心僧都源信という人である。師であり学僧としても名高い良源は己の持てる全てを源信に注ぎ込んだと言っても過言ではない。源信は母の諌めもあってか比叡山においての名利栄達の道を捨て去り、横川(よかわ)にある恵心院(えしんいん)にて隠遁(いんとん)し、ひたすら求道の一生を送ることになる。そして四十四歳の時に『往生要集(おうじょうようしゅう)』という書物を完成させた。日本人の精神性に多大な影響を与えることになった偉大なる書物である。】

 空也上人の時代はまさに浄土仏教・念佛の教えが日本中に広まるはじまりの時代と言えます。空也上人が活躍されている同時代に恵心僧都源信が生まれました。幼いころに父と死別し、比叡山へと登られたのは法然上人と通じるものがあります。
 有り余る才覚と他を寄せ付けぬほどの勤勉さで勉学に励み、『今昔物語集』には「三条の太后の宮の御八講』(法華八講・法華経の講義を行う法会)に呼ばれたとあり、また「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」(天台宗の僧侶としての最終試験のようなもの)では問題に対するその答えの素晴らしさなどにより、その名声は広く知られていましたが、布施で源信が手に入れた品々を母に贈ったところ「遁世修道こそが我が願い」という言葉と共に布施の品を送り返されたと言い、また源信自身の思う所によって比叡山の三塔の一つの横川というところにある恵心院で隠遁することになったのです。

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by hechimayakushi | 2017-09-11 00:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 07日

私説法然伝31

『私説法然伝』(31)極楽への道⑥

 先月号では「日本における念佛のはじまり」について書きました。今月はその続きになります。

【比叡山延暦寺にて確立された「山の念佛」とはどのようなものであったのだろうか。源為憲(みなもとのためのり)が記した『三宝絵詞』によれば「秋八月の風涼しい時、中旬の月の明るい頃、十一日の暁から十七日の夜に至るまで、不断に行じられる」とあり、また「身は常に阿弥陀佛を廻(めぐ)るから、身の罪はことごとく無くなってしまう。口には常に経を唱えるから、口の咎(とが)が消えてしまう。心は常に佛を念じるから、心の過ちはすべて尽きてしまう」と記されている。そして重要となるのが「阿弥陀経に、若(も)し一日、若し二日、若し三日、乃至七日、一心不乱臨終の時に心顛倒(てんどう)せずして、即ち極楽に生まれると。七日間に限るには、この経説に依る」とある。身と口と心、すなわり私たちの身体と行いが作り出す「罪」を念佛によって消し去ることによって極楽浄土へ生まれる事ができるようになるという理解がなされていたのである。この比叡山における念佛の流れの中から生まれでたのが空也(くうや)上人と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。空也上人は今日では空也上人像が有名である。平安時代中頃の僧侶で、阿弥陀聖(あみだひじり)とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれる。延喜二十二年(九二二年)尾張国分寺にて出家し、在俗の僧侶として諸国を廻り「南無阿弥陀佛」と称えながら道路や橋、寺院建立などの社会事業を行ったとされる。やがて比叡山延暦寺にて授戒し「光勝」という名を授かる。六波羅蜜寺の本尊十一面観音菩薩立像は天暦五年(九五一年)に空也上人が西光寺を創建した際の本尊とされている。鴨長明(かものちょうめい)編の『発心集(ほっしんしゅう)』には「これを我が国の念仏の祖師と申すべし」と空也上人についての記述がある。空也上人は鉦(かね)や太鼓などの楽器を用いた踊り念仏をおこなったと伝えられる。市井の中において口称の念佛を人々に伝えられたのである。その影響は後世の念佛者たちにも与えている。】

 比叡山延暦寺においてはじまった浄土仏教の流れ、それを「山の念佛」とも言いますが、その中で様々な僧侶たちによってその流れがさらに発展していくことになります。特に有名なのが空也上人と恵心僧都源信です。空也上人について知る人は少なくとも、京都の六波羅蜜寺に伝わる康勝作の「空也上人像」を知る人は多いでしょう。空也上人は「聖(ひじり)」と呼称される、諸国を廻りながら勧進(かんじん)(布教活動と寄付の募集活動)を行う僧侶でありました。

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by hechimayakushi | 2017-08-07 22:55 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

私説法然伝30

『私説法然伝』(30)極楽への道⑤

 先月号では「阿弥陀佛と本願」について書きました。今月はその続きになります。

【日本に佛教が公(おおやけ)に伝わったのは欽明天皇(きんめいてんのう)の時代、壬申(じんしん)の年・五五二年とされている。それ以前の戊午(つちのえうま)の年・五三八年説もある。また渡来人によって私的に伝来していたという説もある。いずれにせよ欽明天皇の時代六世紀なかば頃にもたらされたものと考えられている。その中にもちろん阿弥陀佛と、その信仰の中心となる浄土三部経(じょうどさんぶきょう)をはじめとする各種の経典類がもたらされたと考えられている。来世への往生という考え方は早くから注目されており、阿弥陀佛信仰・西方極楽浄土への往生思想(二つを合わせて「浄土仏教」とする)は日本において広まりを見せていた。本格的な研究のはじまりは奈良時代からであり、南都の各宗派で多数の学僧が経論を学んだ。日本における浄土仏教の確立という観点で言えば平安時代のはじまり、桓武天皇の時代からと言える。それは最澄と空海という日本佛教改革者の登場によってもたらされる。二人は中国で学び、帰国して日本の佛教の新たな道を切り開いた。その二つの流れが天台宗と真言宗であり、それぞれに浄土仏教の思想が取り込まれている。その中で最も重要となるのが天台宗における浄土仏教の思想と言える。最澄は修行法の中の一つに常行三昧(じょうぎょうざんまい)と呼ばれる修行法を設定した。それは常に行道をしながら口に南無阿弥陀佛と称え、心に阿弥陀佛を思い浮かべる、というものであった。これが日本天台宗・比叡山延暦寺における「念佛」のはじまりとなり、それを発展させたのが最澄の弟子の円仁(えんにん)である。円仁は最澄と同じく唐に渡り、様々な困難や出会いにより五台山(ごだいさん)へと登る。そこで出会ったのが唐の僧侶・法照(ほっしょう)により初められた五会念佛(ごえねんぶつ)であった。五会念佛とは、五種類の音声からなる音楽的な称名の念佛である。日本へと戻った円仁は比叡山に常行三昧堂を建立し、五会念佛三昧法として、念佛三昧行・不断念佛(ふだんねんぶつ)を行うようになった。これが後に「山の念佛」と呼ばれる比叡山における浄土仏教の確立と言えるものである。】
 
 日本へと佛教が伝来した時点での佛教の広まりであったり、人々の信仰がどのような形であったのかは、はっきりとしないことも多々あります。しかし、早い時期から往生思想、兜率天と呼ばれる弥勒菩薩の浄土への往生思想などが信仰されていたことからもわかりますように、日本の人々にも「往生」というものが受け入れられていたことが理解できます。また、奈良時代には南都の佛教、平安時代には最澄と空海によって切り開かれた佛教、特に最澄の開いた比叡山延暦寺における「念佛」が日本における念佛の形を決定づけることになったのです。最澄の弟子の円仁は、実に数奇な人生を送られた方です。『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』という世界三大旅行記の著者として世界的にも有名な僧侶なのであります。

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by hechimayakushi | 2017-07-13 00:21 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 12日

私説法然伝29

『私説法然伝』(29)極楽への道④

 先月号では「念佛」について書きました。今月はその続きになります。

【阿弥陀佛への念佛とは何か?それについて考えるにはまず阿弥陀佛とは一体どのような佛であるのかを知らなければならない。阿弥陀佛とは、ある王が無上のさとりを得るために、世自在王佛(せじざいおうぶつ)という佛の弟子となり法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となった。法蔵菩薩は全ての存在を救い取るという四十八の「本願(ほんがん)」(佛になるためにたてる誓い)をたて、途方もなく長い時間をかけて修行を重ねて、全ての「本願」を成就して阿弥陀佛となった。阿弥陀とはアミタ=無量の意味を持つ。阿弥陀佛の別名には無量寿佛(むりょうじゅぶつ)と無量光佛(むりょうこうぶつ)とがある。無量寿とは無限の寿命を持つという意味になり、無量光とは無限の光を持つという意味となる。無限の寿命は「本願」=救いは時間的制約を受けない、つまりいつでもいつまでも救い取られていることを示す。無量光の光は範囲を示し、全ての存在を照らす、つまり「本願」=救いに範囲の限定がないことを示している。阿弥陀佛とは法蔵菩薩の「本願」=全ての存在を救い取ることが成就したことを現した名前を持つ佛なのである。
では「本願」=全ての存在を救い取るということはどういうことか?阿弥陀佛は、はるか昔に本願成就され西方極楽浄土という名前の佛の世界を建立され説法を続けられているという。全ての存在が、その阿弥陀佛の世界へ往き生まれ、阿弥陀佛のもとで佛と成っていくことが「本願」=全ての存在を救い取るということである。
阿弥陀佛への念佛の「本質」は阿弥陀佛の「本質」とも言える「本願」への念佛とも言える。それはつまり「西方極楽浄土へ往き生まれることを願う」ということでもある。
では人々はどのようにそれを願っていたのであろうか?また、どうして願わなければなかったのであろうか?そして法然上人はいかにして「本願」と向き合う事になったのであろうか?】
 
 現在の我々は「阿弥陀佛」に関しても「念佛」に関しても簡単にその詳細を知ることができます。しかし法然上人の時代は大変な苦労を重ね、勉学を重ねて、一つ一つ知識を重ねて、ようやくたどり着けたのでしょう。また、今現在と違って日本で手に入る情報にも限りがありました。その中で人々がどのようにして阿弥陀佛や念佛と向き合っていたのかを見ていくことによって、法然上人がどのようにして「本願」と出会い、向き合っていかれたのかが理解出来るのではないでしょうか?

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by hechimayakushi | 2017-06-12 14:23 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 05日

私説法然伝28

『私説法然伝』(28)極楽への道③

 先月号では法然上人と師の叡空との論争について書きました。今月はその続きになります。

【念佛とは何か?まず言葉として「念」と「佛」が組み合わさっている。ここでの「念」とは念じること。念じるとは常に心に思うこと。常に心に思うとは、記憶し忘れないという事である。常に心に佛を思う、記憶し忘れないという「行い」が本来的な意義であった。念佛の歴史は古く、元来は釈尊(ブッダ)に対する「念佛」であった。釈尊に対しての佛弟子達の「念佛」は「南無佛(なむぶつ)」と唱え称(たた)えたものとされる。それはあくまで追憶であったり帰依であったり讃嘆(さんたん)の意味があったであろう。やがて釈尊の入滅(にゅうめつ)と共に「念佛」の持つ意義が変化していく。人間としての釈尊への「念佛」から佛教の根本的なもの「法」(教え・真理)としての釈尊への「念佛」へと変化していったである。特に「佛」は人々の苦悩をよくすくい取る「大慈悲(だいじひ)」をそなえている、その大慈悲を自分自身も実践しなければならないという気持ちを目指すための「念佛」となっていたとされる。やがて大乗佛教の発展により念佛の対象となる佛が広がっていった。「阿弥陀佛」への「念佛」の起こりである。
では阿弥陀佛への「念佛」とは何であるのか?】
 
 先月に書いた法然上人と師の叡空との論争の火種は「念佛」についてでした。
 この「念佛」とは一体何であるのか、と掘り下げていかなければ法然上人と叡空の論争の中身が見えてこないと思います。
 「念佛」という言葉を分解して考えてみますと、念には記憶し忘れないという意義が本来的にあり、佛とは元々は釈尊を指していましたが釈尊入滅後は「人間」釈尊からその教えそのものを念じていくことに変化したと考えられています。
 そして佛教の歴史が進むにつれて「佛」というものが教えに対する解釈の「深度」が深まるにつれ多様性を増していきました。そしてその「佛」に対して「念佛」もまた「深度」を増していったと考えています。
そこで登場しますのが「阿弥陀佛」となるのです。「阿弥陀佛」を「念佛」する、現在の常識で言えば当たり前のように思われますが、それがどのようなものであったのか?そこが重要となってくるのです。
 法然上人が新しい方法論を模索される中で乗り越えなければならなかったのがこの「阿弥陀佛」と「念佛」となるのです。

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by hechimayakushi | 2017-05-05 19:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 10日

私説法然伝27

『私説法然伝』(27)極楽への道②

 先月号では法然上人が経蔵に籠もられて、自らを「三学の器(うつわもの)に非ず」と内省されていくことについて書きました。今月はその続きになります。

【別の方法論を求められた法然上人だが、一体どのようにその模索をされたのだろうか?
 『法然上人行状絵図』にはある日、法然上人が師の叡空と論争を行った記述がある。称名念佛(しょうみょうねんぶつ)と観想念佛(かんそうねんぶつ)の優劣についてである。叡空は自らの師の良忍(りょうにん)の説をもって観想念佛が優れていると言い、法然上人は称名念佛こそが優れていると言った。法然上人が「良忍上人は我々より先にお生まれになった方ですので」と言ったところ叡空はたいそう立腹したとある。
 叡空との論争から読み取れる事は多い。まず叡空は念佛の人であった。叡空の師の良忍は元は比叡山東塔の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で不断念佛行(ふだんねんぶつぎょう)を修行する堂僧で、後に一人の念佛が万人の念佛に融通し合うという融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを開眼し現在の融通念佛宗の開祖となられた方である。
 叡空自身もまた師より相承した「念佛」の教えを守っていた。しかし法然上人はその「教え」に対して反発したのである。ではその「教え」とは何であろうか?
 それを知るにはまず「念佛」という言葉がキーワードとなるのである。】
 
 以前にも法然上人は師である叡空と論争を行ったことを書きましたが、ここでもまた論争を行っています。そしていつも師の叡空は法然上人に対して腹を立てていますが、それは何故でしょうか?
 まず念佛の優劣についてがありますが、詳しい事は次号以降に書いていきたいと思います。ここで重要なポイントとなるのは叡空は師の良忍の「教え」を元にして法然上人と論争を行っているところです。
 それに対して法然上人は自らが考えた結論を元に論争を行っています。そして叡空に対して「良忍上人は先にお生まれになった方」と言いました。これは法然上人の姿勢を現している言葉となります。つまりは師の「教え」をただ守り伝えることを自分はしない、学んだ結果を元に新たな「教え」にたどり着きたいという事を言いたかったのではないでしょうか?「新たな方法論」にたどり着くには師の「教え」では不可能であるという事を示しているのです。
叡空だけでなく師の良忍までを否定するかのような法然上人に対して叡空は怒ったのです。

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by hechimayakushi | 2017-04-10 00:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 03月 12日

私説法然伝26

『私説法然伝』(26)極楽への道①

 先月号では保元の乱から法然上人と高橋茂右衛門との出会いについて書きました。今月はその続きになります。

【答えを見つけることができない。それは法然上人にとって苦難であり、苦悩であり、絶望的な状況であったと思われる。しかし保元元年(ほうげんがんねん)の旅は法然上人にとって一つの道を指し示されたと言える。
 まず今まで自分自身の中で「常識」であった考え方と方法論との決別を決意することができたと考えられる。
 そして自分自身が今まで知らなかった何か別の「答え」を見出さなければならないということである。
比叡山に戻られた法然上人は経蔵(きょうぞう)へ籠もられたという。だがそれは以前のように「自分自身のさとり(佛となる)を求めるもの」または「僧侶としての修学に励むこと」とは違った意味合いを持っていたに違いない。「衆生(しゅじょう)」という「生きとし生けるもの全て」を対象とした「模索」が行われたのではないだろうか?
 もちろんその「模索」に至るプロセスは存在したであろう。結果として保元元年(一一五六年)から二十年近い時間をかけて承安(じょうあん)五年(一一七五年)の春に法然上人は「答え」に到達される。一つの答えに到達するまでには膨大なプロセスが存在する。 法然上人のプロセスにおいて重要な事が一つあった。それは「常識」との決別である。それは「三学の器(うつわもの)に非ず」という法然上人の言葉に集約されている。三学とは仏教における方法論の全てを表し、自分自身はその方法論では「さとり」に到達できない者であるという自覚をされたことである。それを言い換えるならば法然上人は自らが「凡夫(ぼんぷ)」であると言われたことになる。そしてそれが意味することは三学の放棄となる。 法然上人は三学ではない別の方法論を模索されることになったのだ。】
 

 法然上人は長い年月をかけて一つの答えに到達されることになるのですが、その「答え」だけを見ても実は「正解」がよくわからないのではないでしょうか?
 数学で言うならば、答えとなる数字だけを見ても、その答えに至る公式や道筋も見なければそれが本当に正しい答えなのかどうかの判別がつかない事に似ているかもしれません。
 法然上人が「正解」に至るにはまず「三学の器に非ず」つまり「凡夫」という概念に始まるプロセスが必要となったのです。

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by hechimayakushi | 2017-03-12 23:02 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 09日

私説法然伝25

『私説法然伝』(25)法然誕生⑨

 先月号では保元の乱について書きました。今月はその続きになります。

【保元(ほうげん)元年(一一五六年)夏に巻き起こった一連の争乱は終結した。その時、法然上人は清涼寺への参籠、そして遊学を終え比叡山黒谷の叡空の室へと戻っていた。
その時、法然上人は一体何を考え、何をなさろうとされていたのであろうか?
世の中の流れが変わろうとしていた時期に、法然上人もまた変わらざるおえなかったのであった。
 西山浄土宗総本山光明寺に法然上人の南都への遊学にまつわる一つの話しが伝わっている。清涼寺での参籠の後、南都へと向かうのだが、今の西山浄土宗総本山光明寺のある粟生(あお)の地へさしかかった時には日が沈みかけていた。その時に宿を求めたのが村役であった高橋茂右衛門(たかはしもえもん)宅であったという。訪れた法然上人に応対した下男は法然上人を追い出し、仕方なく門前にて法然上人は一夜を過ごそうとされた。旅の疲れから眠られた法然上人の両眼から光が放たれたという。それに驚いた主の高橋茂右衛門は法然上人を招き入れ、旅の目的を聞いた。法然上人の志しの高さに感銘を受けた高橋茂右衛門は法然上人が追い求める答えが見つかった時には真っ先にこの高橋茂右衛門に教えてくださいと願ったという。
 法然上人が再び高橋茂右衛門宅を訪れるのはそれから二十年の月日が経っていた。法然上人が答えを見つけられ、比叡山延暦寺を下りられてからのことである。】
 
 法然上人は答えを見つけることなく比叡山延暦寺へと帰ることになりましたが、答えに至る道筋には出会われたと言えるのではないかと考えます。嵯峨の清涼寺で出会った人々、そして高橋茂右衛門との出会い。これは法然上人にとって初めて「他者」が法然上人の「求法(ぐほう)」の中に大きなウエイトを占めることになったきっかけであると推察するのです。法然上人にとって佛教とは、あくまで自己完結するものであったのが、そうでなくなった。「誰でも」という観点、
「衆生(しゅじょう)」という意識が芽生えたのが保元元年の南都遊学であり、その年は当に世の中の変換点の年でもあったのです。
 黒谷へと戻った法然上人にとって、これからが本当の苦しさの始まりとも言えるのですが、それは言い換えれば産みの苦しさとも言うべきものとなります。
 比叡山へと上った勢至丸が、成長し「法然」と成っていく、その象徴的な出来事が保元元年の南都遊学であったと思います。この旅で法然上人が得た経験はやがて日本の宗教革命を巻き起こす第一歩であったと言えるのです。

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by hechimayakushi | 2017-02-09 23:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 08日

私説法然伝24

 『私説法然伝』(24)法然誕生⑧

 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。

【保元元年(一一五六年)七月二日鳥羽法皇が崩御(ほうぎょ)される。同月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使(けびいし)の平基盛(たいらのもともり)らが召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。同月八日には、忠実・頼長親子が荘園から兵を集めることを禁止する後白河天皇の綸旨(りんじ)が諸国に下されると同時に、高階俊成(たかしなとしなり)と源義朝(みなもとのよしとも)が東三条殿を差し押さえた。頼長卿を謀反人としたのである。藤原摂関家の氏の長者が謀反人とされるのは前代未聞のことであった。
 それらは後白河天皇の綸旨・勅命でなされたが、その背後には側近の信西入道がいたとされる。同月九日の深夜、崇徳上皇は鳥羽離宮田中殿を脱出し、白河北殿へと入った。打つ手がなくなった頼長卿も同月十日白河北殿へと入る。もはや崇徳上皇の下で挙兵するしか事態を打開する手段がなくなったのである。しかし私兵しかいない崇徳上皇側と後白河天皇側との兵力の差は歴然としていた。崇徳上皇は平家棟梁たる平清盛(たいらのきよもり)の支持を期待していたとされる。当時の武家における最大勢力が平家であった。しかし平清盛は後白河天皇側へ付いてしまう。この時点で趨勢は決まったも同然であった。同月十日、後白河天皇の召集に応じて後白河天皇の本拠地高松殿に警護役であった源義朝をはじめ、平清盛ら主だった武士が集まる。軍議において信西入道、源義朝らが夜襲を主張し、十一日未明には白河北殿を急襲する。崇徳上皇側の源為朝(みなもとのためとも)らの活躍もあり、後白河天皇側は攻めあぐねるが、白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち、延焼させ白河北殿を落とすことに成功した。
 崇徳上皇、頼長卿らは逃亡し、忠実卿も宇治より南都へと逃亡する。その日のうちに戦功褒賞と忠通卿を氏の長者とする宣旨が下されたが、氏の長者の地位は藤原摂関家が決めるものとしてこれを辞退している。同月十三日には崇徳上皇が異母弟覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼るが断られ、源重成(みなもとのしげなり)監視下に置かれる。頼長卿は首に矢傷を負いながらも南都まで逃げ延びるが、忠実卿に会うことすら拒絶され絶命する。同月十九日謀反人とされた忠実卿の持つ所領の没収を避けるため、忠通卿は先に下された氏の長者任命の宣旨を受け入れた。同月二十三日に崇徳上皇は讃岐配流となった。
 後に保元の乱と呼ばれる戦いは終わり、結果的に藤原摂関家の決定的な没落と、武家の躍進、そして後白河天皇を中心とする新体制がスタートすることになるのである。】

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by hechimayakushi | 2017-01-08 00:08 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 12月 11日

私説法然伝23

『私説法然伝』(23) 法然誕生⑦

 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。

【久安(きゅうあん)六年(一一五〇年)一月四日のことである。近衛天皇が元服し頼長卿の長女多子(まさるこ)が同月十日に入内する。そして十九日には女御となる。それに対して忠通卿は二月に藤原伊通(これみち)卿の娘呈子(しめこ)を入内させた。これにより忠通・頼長兄弟の対立は修復不可能となったのである。そして忠実卿は強硬手段に出る。藤原摂関家の象徴である東三条殿(ひがしさんじょうでん)や朱器台盤(しゅきだいばん)を接収し氏の長者としての地位を剥奪した。姉の藤原泰子(高陽院)も頼長につき、鳥羽院も終始曖昧な態度をとり、忠通卿は関白に留めたまま頼長卿に内覧の宣旨を下すという事態に至った。
 兄弟で関白職と内覧を分けるという異常事態ではあるが、これにより頼長卿は政治的実権を握ることができたことは間違いない。頼長卿が目指したのは何か?藤原摂関家の権勢の回復もさることながら、最も重視したのは律(りつ)と令(りょう)、そして儒教的な思想に基づく政治体制である。つまり法律と倫理による政治を行おうとしたのである。
 その姿勢は論理的に明確かつ理想的ではあったが、周囲の理解を得ることはできず、鳥羽院の寵臣の藤原家成卿との争いもあり、鳥羽院より疎んじられることになっていく。やがて政治的に孤立し、それが争乱の一因となるのである。
 久寿二年(一一五五年)七月、近衛天皇が崩御する。後継者を決める王者議定(おうじゃぎじょう)の場に参加したのは源雅定(みなもとのまささだ)卿と三条公教(さんじょうきみのり)卿で、いずれも美福門院得子(びふくもんいんとくこ)と関係の深い公卿だった。候補としては重仁(しげひと)親王が最有力だったが、美福門院得子のもう一人の養子・守仁王(もりひとおう・後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁(まさひと)親王が立太子しないまま二十九歳で即位することになった(後白河天皇)。 突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西入道の思惑があったと言われる。
 世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流れていた。頼長卿は内覧の宣旨を解かれ政治的に失脚し、忠実卿は頼長卿を謹慎させ連絡役である泰子(高陽院)を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、十二月に泰子(高陽院)が逝去したことでその望みを絶たれた。
 兄弟間の対立や頼長卿の清廉なれど独善的な政治によって藤原摂関家そのものの力をまた失っていったのである。
 そのような状況の中で保元元年(一一五六年)、鳥羽法皇の崩御となったのである。それは藤原摂関家の「権勢」の崩壊の序章となるのであった】

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by hechimayakushi | 2016-12-11 23:24 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)