へちま薬師日誌

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2017年 12月 14日

私説法然伝35

『私説法然伝』(35)極楽への道⑩

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」の『往生要集』に導かれるように法然上人は「念佛」の模索を始められたことについて書きました。今月はその続きになります。

【法然上人の模索の過程に関して『法然上人行状絵図』によると、恵心僧都源信の『往生要集』は善導大師(ぜんどうだいし)の「注釈」を「指導の書」としており、法然上人はその「注釈書」である『観経疏(かんぎょうしょ)』(観無量寿経疏・観無量寿経の注釈書)を読まれた、とある。『往生要集』から善導大師の『観経疏』へという過程ということである。しかし、その流れで後の法然上人の到達されたところである「本願念佛(ほんがんねんぶつ)」(佛の本願により往生する)へは到達できるのであろうか?おそらく一本道では到達できなかったであろう。法然上人は天台の教えをはじめとして諸宗の教えに通じておられた。『往生要集』だけが「先達の書」ではなかったと考えられている。念佛者であった永観禅師(ようかんぜんじ)は『往生拾因(おうじょうしゅういん)』においてひたすら称名の念佛こそが勝れているとし、画僧として有名な珍海も称名は「正中の正因」としている。だがいずれも「凡夫」が「凡夫」のままで救われるということを示していない。法然上人の到達点はそこにはなかった。愚勧住信(ぐかんじゅうしん)の『私聚百因縁集(しじゅひゃくいんねんしゅう)』には法然上人三十三歳の時に専修念仏の道へ進まれたとある。永万元年(一一六五年)の頃である。法然上人が『往生要集』を始めとして、様々な「念佛の道」に出会われ、そして『観経疏』と本質的に出会われていったのが法然上人三十三歳ごろであったのではないだろうか?それはまだ到達点とは言えないにしろ、法然上人に示された「極楽への道」であったのではないか。経蔵に籠もり苦しみの中のでの模索であったが、確かに法然上人は一つの到達点へと近づいていったのである。】


法然上人は『法然上人行状絵図』に記された「過程」でだけではなく、実際には様々な書物などを通して模索を重ねられたと言えます。永観禅師『往生拾因』などはその代表的なものだと言えます。そして善導大師の『観経疏』という圧倒的な存在とも言える書物に立ち向かっていかれた、と言うと大げさかもしれませんが、法然上人にとってはまさに人生をかけて「極楽への道」を歩まれていたのがこの時期であったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-12-14 23:16 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 11日

私説法然伝34

『私説法然伝』(34)極楽への道⑨

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」という方の書かれた『往生要集(おうじょうようしゅう)』について、また源信の始めた念佛結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と「臨終行儀」などについて書きました。今月はその続きになります。

【恵心僧都源信が目指した「念佛」とは一体何であったのだろうか?源信の考えに従って作られた『往生要集』と「二十五三昧会」の二つがその両輪である。そして源信は念佛の中で「理観(りかん)の念佛」(念佛を通して空を覚り三昧に至る)を理想とし、それが出来ない者は「色相観(しきそうかん)の念佛」(阿弥陀佛の姿を想い描く)を行い、それが出来ない者は阿弥陀佛に深く帰依して極楽浄土へ往生したいという「念」(菩提心)を元にして称える「称名(しょうみょう)の念佛」があるとした。源信にとっての念佛はあくまで天台宗の思想に基づくものであり、称名の念佛はあくまで付随的なものであり、天台的な捉え方であったと言える。法然上人もまた『往生要集』を読んだ。後に『往生要集』に導かれて浄土佛教の道へと入ったと述べられている。理観の念佛を至上とする『往生要集』と後の法然上人の思想は相容れない。しかし『往生要集』の「思想」が持つ構造、「難」から「易」というところに着目されたのだと考えられる。常識的に考えれば、簡単な事からはじめてより難しい事を習得していくことが一つの「道」である。しかし法然上人はそこに疑問を持たれたのだと言える。理想的だが難しく実現不可能な方法を源信が伝えたかったのではない、もっと根本的に違う何かが有るのではないか?と法然上人は考えられたのではないだろうか?そして『往生要集』をスタートとして、法然上人は様々な「念佛」を模索されていくのである。】

法然上人は長い時間をかけて「念佛」とは何か?を模索されることになるのですが、そのスタートラインと言えるのが『往生要集』となったのです。法然上人は『往生要集』とそれに基づく「二十五三昧会」で行われている事に着目されたのではなく、源信僧都の思想の展開の構造に着目されていたことが大切なポイントだと思います。そして法然上人は『往生要集』の構造理解を通して浄土佛教というもの、または佛教全体を見直されようとしていたのではないでしょうか?

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# by hechimayakushi | 2017-11-11 16:36 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 14日

私説法然伝33

『私説法然伝』(33)極楽への道⑧

【恵心僧都源信、寛和(かんな)元年(九八五年)に『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を撰述された。この書物がどうして日本人の精神性に影響をあたえるほどの書物であったのか?まずは『往生要集』がどのような書物であったのかをまとめる必要がある。『往生要集』は十門つまり十の構成となっており、約百六十以上の経典などを選び出し、引用し、文章を構成している。その構成は厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・極楽証拠・正修念佛・助念方法・別時念佛・念佛利益(ねんぶつりやく)・念佛証拠・往生諸業・問答料簡の十の章段となる。その内容を簡潔に言えば「この迷いの世界を離れて阿弥陀佛の世界=西方極楽浄土に生まれるには正しい念佛が必要である」ということになる。今日において『往生要集』と言えば「地獄」の描写が最も有名である。これは厭離穢土の章段に仔細(しさい)に記されている。苛烈(かれつ)極まる地獄の姿と対照的に西方極楽浄土の素晴らしさが強調され、そして念佛によって西方極楽浄土へと往生する、その念佛とはどのようなものかと源信は『往生要集』に全てを集約したのである。この書物が当時の人々に与えた影響は大きく、特に「地獄」のイメージを日本人に植え付けたのは『往生要集』によるところが大きい。また、日本のみならず当時の宋の国へと送られ絶賛されている。
 そして『往生要集』を基として「念佛結社」が作られるようになった。「念佛結社」とは東晋の僧侶慧遠(えおん)によって結成された「白蓮社(びゃくれんしゃ)」がそのルーツと言えるもので、同士が集まって念佛の実践を誓い、念佛を行うものであった。これを中国における浄土佛教の始まりともされている。『往生要集』の中では「臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)」として記された念佛の実践方法を基にして、葬送儀礼を追加したものが源信の打ち立てた念佛結社であり、それを「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と言う。この「二十五三昧会」を元に各念佛結社が作られていったのである。それはつまり念佛の実践が広がり、根付いていたったことと言える。 
この「二十五三昧会」とは、源信とその法友慶滋保胤ら二十五名の僧侶が横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)にて毎月十五日羊(ひつじ)の時刻、午後二時ごろ集まり、法華経の講義の後に回向と起請文が読まれ、その後は翌朝の辰(たつ)の時刻つまり午前八時までひたすら念佛三昧を目指すというものであった。そして結社の構成員・結衆は互いに扶助し規律を守り、病を得た者がいれば往生院という阿弥陀佛像が安置された堂に移し、病人の看護をし、西方に向けられた阿弥陀佛像の後ろに病人を置き、阿弥陀佛と病人を五色の旙(はた)(五つの色の布)で結び、西方極楽浄土へ往生する想いをこらさせる。往生を遂げた者は同じ墓所へ埋葬し、念佛会(ねんぶつえ)を行ったという。】

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# by hechimayakushi | 2017-10-14 20:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 11日

私説法然伝32

『私説法然伝』(32)極楽への道⑦

 先月号では「比叡山延暦寺にはじまった念佛の流れから生まれでた空也上人」について書きました。今月はその続きになります。

【空也上人が活躍する時代にもう一人比叡山延暦寺における浄土仏教・念佛の流れにおいて最重要人物となる僧侶が生まれた。その僧侶こそが恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。天慶(てんきょう)五年(九四二年)大和国北葛城郡当麻にて、父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に生を受けた。幼くして父と死別し、信仰心の篤い母によって育てられる。九歳にして比叡山延暦寺へと登ったと伝えられている。師は天台宗中興の祖と誉れ高い慈恵大師良源(じけいだいしりょうげん)僧正である。ありとあらゆる学問を学び、それら全てを吸収し、咀嚼する才覚が間違いなくあったと言えるのが恵心僧都源信という人である。師であり学僧としても名高い良源は己の持てる全てを源信に注ぎ込んだと言っても過言ではない。源信は母の諌めもあってか比叡山においての名利栄達の道を捨て去り、横川(よかわ)にある恵心院(えしんいん)にて隠遁(いんとん)し、ひたすら求道の一生を送ることになる。そして四十四歳の時に『往生要集(おうじょうようしゅう)』という書物を完成させた。日本人の精神性に多大な影響を与えることになった偉大なる書物である。】

 空也上人の時代はまさに浄土仏教・念佛の教えが日本中に広まるはじまりの時代と言えます。空也上人が活躍されている同時代に恵心僧都源信が生まれました。幼いころに父と死別し、比叡山へと登られたのは法然上人と通じるものがあります。
 有り余る才覚と他を寄せ付けぬほどの勤勉さで勉学に励み、『今昔物語集』には「三条の太后の宮の御八講』(法華八講・法華経の講義を行う法会)に呼ばれたとあり、また「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」(天台宗の僧侶としての最終試験のようなもの)では問題に対するその答えの素晴らしさなどにより、その名声は広く知られていましたが、布施で源信が手に入れた品々を母に贈ったところ「遁世修道こそが我が願い」という言葉と共に布施の品を送り返されたと言い、また源信自身の思う所によって比叡山の三塔の一つの横川というところにある恵心院で隠遁することになったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-09-11 00:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 07日

私説法然伝31

『私説法然伝』(31)極楽への道⑥

 先月号では「日本における念佛のはじまり」について書きました。今月はその続きになります。

【比叡山延暦寺にて確立された「山の念佛」とはどのようなものであったのだろうか。源為憲(みなもとのためのり)が記した『三宝絵詞』によれば「秋八月の風涼しい時、中旬の月の明るい頃、十一日の暁から十七日の夜に至るまで、不断に行じられる」とあり、また「身は常に阿弥陀佛を廻(めぐ)るから、身の罪はことごとく無くなってしまう。口には常に経を唱えるから、口の咎(とが)が消えてしまう。心は常に佛を念じるから、心の過ちはすべて尽きてしまう」と記されている。そして重要となるのが「阿弥陀経に、若(も)し一日、若し二日、若し三日、乃至七日、一心不乱臨終の時に心顛倒(てんどう)せずして、即ち極楽に生まれると。七日間に限るには、この経説に依る」とある。身と口と心、すなわり私たちの身体と行いが作り出す「罪」を念佛によって消し去ることによって極楽浄土へ生まれる事ができるようになるという理解がなされていたのである。この比叡山における念佛の流れの中から生まれでたのが空也(くうや)上人と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。空也上人は今日では空也上人像が有名である。平安時代中頃の僧侶で、阿弥陀聖(あみだひじり)とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれる。延喜二十二年(九二二年)尾張国分寺にて出家し、在俗の僧侶として諸国を廻り「南無阿弥陀佛」と称えながら道路や橋、寺院建立などの社会事業を行ったとされる。やがて比叡山延暦寺にて授戒し「光勝」という名を授かる。六波羅蜜寺の本尊十一面観音菩薩立像は天暦五年(九五一年)に空也上人が西光寺を創建した際の本尊とされている。鴨長明(かものちょうめい)編の『発心集(ほっしんしゅう)』には「これを我が国の念仏の祖師と申すべし」と空也上人についての記述がある。空也上人は鉦(かね)や太鼓などの楽器を用いた踊り念仏をおこなったと伝えられる。市井の中において口称の念佛を人々に伝えられたのである。その影響は後世の念佛者たちにも与えている。】

 比叡山延暦寺においてはじまった浄土仏教の流れ、それを「山の念佛」とも言いますが、その中で様々な僧侶たちによってその流れがさらに発展していくことになります。特に有名なのが空也上人と恵心僧都源信です。空也上人について知る人は少なくとも、京都の六波羅蜜寺に伝わる康勝作の「空也上人像」を知る人は多いでしょう。空也上人は「聖(ひじり)」と呼称される、諸国を廻りながら勧進(かんじん)(布教活動と寄付の募集活動)を行う僧侶でありました。

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# by hechimayakushi | 2017-08-07 22:55 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)