へちま薬師日誌

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2017年 07月 13日

私説法然伝30

『私説法然伝』(30)極楽への道⑤

 先月号では「阿弥陀佛と本願」について書きました。今月はその続きになります。

【日本に佛教が公(おおやけ)に伝わったのは欽明天皇(きんめいてんのう)の時代、壬申(じんしん)の年・五五二年とされている。それ以前の戊午(つちのえうま)の年・五三八年説もある。また渡来人によって私的に伝来していたという説もある。いずれにせよ欽明天皇の時代六世紀なかば頃にもたらされたものと考えられている。その中にもちろん阿弥陀佛と、その信仰の中心となる浄土三部経(じょうどさんぶきょう)をはじめとする各種の経典類がもたらされたと考えられている。来世への往生という考え方は早くから注目されており、阿弥陀佛信仰・西方極楽浄土への往生思想(二つを合わせて「浄土仏教」とする)は日本において広まりを見せていた。本格的な研究のはじまりは奈良時代からであり、南都の各宗派で多数の学僧が経論を学んだ。日本における浄土仏教の確立という観点で言えば平安時代のはじまり、桓武天皇の時代からと言える。それは最澄と空海という日本佛教改革者の登場によってもたらされる。二人は中国で学び、帰国して日本の佛教の新たな道を切り開いた。その二つの流れが天台宗と真言宗であり、それぞれに浄土仏教の思想が取り込まれている。その中で最も重要となるのが天台宗における浄土仏教の思想と言える。最澄は修行法の中の一つに常行三昧(じょうぎょうざんまい)と呼ばれる修行法を設定した。それは常に行道をしながら口に南無阿弥陀佛と称え、心に阿弥陀佛を思い浮かべる、というものであった。これが日本天台宗・比叡山延暦寺における「念佛」のはじまりとなり、それを発展させたのが最澄の弟子の円仁(えんにん)である。円仁は最澄と同じく唐に渡り、様々な困難や出会いにより五台山(ごだいさん)へと登る。そこで出会ったのが唐の僧侶・法照(ほっしょう)により初められた五会念佛(ごえねんぶつ)であった。五会念佛とは、五種類の音声からなる音楽的な称名の念佛である。日本へと戻った円仁は比叡山に常行三昧堂を建立し、五会念佛三昧法として、念佛三昧行・不断念佛(ふだんねんぶつ)を行うようになった。これが後に「山の念佛」と呼ばれる比叡山における浄土仏教の確立と言えるものである。】
 
 日本へと佛教が伝来した時点での佛教の広まりであったり、人々の信仰がどのような形であったのかは、はっきりとしないことも多々あります。しかし、早い時期から往生思想、兜率天と呼ばれる弥勒菩薩の浄土への往生思想などが信仰されていたことからもわかりますように、日本の人々にも「往生」というものが受け入れられていたことが理解できます。また、奈良時代には南都の佛教、平安時代には最澄と空海によって切り開かれた佛教、特に最澄の開いた比叡山延暦寺における「念佛」が日本における念佛の形を決定づけることになったのです。最澄の弟子の円仁は、実に数奇な人生を送られた方です。『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』という世界三大旅行記の著者として世界的にも有名な僧侶なのであります。

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# by hechimayakushi | 2017-07-13 00:21 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 12日

私説法然伝29

『私説法然伝』(29)極楽への道④

 先月号では「念佛」について書きました。今月はその続きになります。

【阿弥陀佛への念佛とは何か?それについて考えるにはまず阿弥陀佛とは一体どのような佛であるのかを知らなければならない。阿弥陀佛とは、ある王が無上のさとりを得るために、世自在王佛(せじざいおうぶつ)という佛の弟子となり法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となった。法蔵菩薩は全ての存在を救い取るという四十八の「本願(ほんがん)」(佛になるためにたてる誓い)をたて、途方もなく長い時間をかけて修行を重ねて、全ての「本願」を成就して阿弥陀佛となった。阿弥陀とはアミタ=無量の意味を持つ。阿弥陀佛の別名には無量寿佛(むりょうじゅぶつ)と無量光佛(むりょうこうぶつ)とがある。無量寿とは無限の寿命を持つという意味になり、無量光とは無限の光を持つという意味となる。無限の寿命は「本願」=救いは時間的制約を受けない、つまりいつでもいつまでも救い取られていることを示す。無量光の光は範囲を示し、全ての存在を照らす、つまり「本願」=救いに範囲の限定がないことを示している。阿弥陀佛とは法蔵菩薩の「本願」=全ての存在を救い取ることが成就したことを現した名前を持つ佛なのである。
では「本願」=全ての存在を救い取るということはどういうことか?阿弥陀佛は、はるか昔に本願成就され西方極楽浄土という名前の佛の世界を建立され説法を続けられているという。全ての存在が、その阿弥陀佛の世界へ往き生まれ、阿弥陀佛のもとで佛と成っていくことが「本願」=全ての存在を救い取るということである。
阿弥陀佛への念佛の「本質」は阿弥陀佛の「本質」とも言える「本願」への念佛とも言える。それはつまり「西方極楽浄土へ往き生まれることを願う」ということでもある。
では人々はどのようにそれを願っていたのであろうか?また、どうして願わなければなかったのであろうか?そして法然上人はいかにして「本願」と向き合う事になったのであろうか?】
 
 現在の我々は「阿弥陀佛」に関しても「念佛」に関しても簡単にその詳細を知ることができます。しかし法然上人の時代は大変な苦労を重ね、勉学を重ねて、一つ一つ知識を重ねて、ようやくたどり着けたのでしょう。また、今現在と違って日本で手に入る情報にも限りがありました。その中で人々がどのようにして阿弥陀佛や念佛と向き合っていたのかを見ていくことによって、法然上人がどのようにして「本願」と出会い、向き合っていかれたのかが理解出来るのではないでしょうか?

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# by hechimayakushi | 2017-06-12 14:23 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 11日

お知らせ

5月12日は都合によりご祈祷お休みさせていただきます。
ご了承お願いいたします。

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# by hechimayakushi | 2017-05-11 19:47 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 05日

私説法然伝28

『私説法然伝』(28)極楽への道③

 先月号では法然上人と師の叡空との論争について書きました。今月はその続きになります。

【念佛とは何か?まず言葉として「念」と「佛」が組み合わさっている。ここでの「念」とは念じること。念じるとは常に心に思うこと。常に心に思うとは、記憶し忘れないという事である。常に心に佛を思う、記憶し忘れないという「行い」が本来的な意義であった。念佛の歴史は古く、元来は釈尊(ブッダ)に対する「念佛」であった。釈尊に対しての佛弟子達の「念佛」は「南無佛(なむぶつ)」と唱え称(たた)えたものとされる。それはあくまで追憶であったり帰依であったり讃嘆(さんたん)の意味があったであろう。やがて釈尊の入滅(にゅうめつ)と共に「念佛」の持つ意義が変化していく。人間としての釈尊への「念佛」から佛教の根本的なもの「法」(教え・真理)としての釈尊への「念佛」へと変化していったである。特に「佛」は人々の苦悩をよくすくい取る「大慈悲(だいじひ)」をそなえている、その大慈悲を自分自身も実践しなければならないという気持ちを目指すための「念佛」となっていたとされる。やがて大乗佛教の発展により念佛の対象となる佛が広がっていった。「阿弥陀佛」への「念佛」の起こりである。
では阿弥陀佛への「念佛」とは何であるのか?】
 
 先月に書いた法然上人と師の叡空との論争の火種は「念佛」についてでした。
 この「念佛」とは一体何であるのか、と掘り下げていかなければ法然上人と叡空の論争の中身が見えてこないと思います。
 「念佛」という言葉を分解して考えてみますと、念には記憶し忘れないという意義が本来的にあり、佛とは元々は釈尊を指していましたが釈尊入滅後は「人間」釈尊からその教えそのものを念じていくことに変化したと考えられています。
 そして佛教の歴史が進むにつれて「佛」というものが教えに対する解釈の「深度」が深まるにつれ多様性を増していきました。そしてその「佛」に対して「念佛」もまた「深度」を増していったと考えています。
そこで登場しますのが「阿弥陀佛」となるのです。「阿弥陀佛」を「念佛」する、現在の常識で言えば当たり前のように思われますが、それがどのようなものであったのか?そこが重要となってくるのです。
 法然上人が新しい方法論を模索される中で乗り越えなければならなかったのがこの「阿弥陀佛」と「念佛」となるのです。

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# by hechimayakushi | 2017-05-05 19:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 10日

私説法然伝27

『私説法然伝』(27)極楽への道②

 先月号では法然上人が経蔵に籠もられて、自らを「三学の器(うつわもの)に非ず」と内省されていくことについて書きました。今月はその続きになります。

【別の方法論を求められた法然上人だが、一体どのようにその模索をされたのだろうか?
 『法然上人行状絵図』にはある日、法然上人が師の叡空と論争を行った記述がある。称名念佛(しょうみょうねんぶつ)と観想念佛(かんそうねんぶつ)の優劣についてである。叡空は自らの師の良忍(りょうにん)の説をもって観想念佛が優れていると言い、法然上人は称名念佛こそが優れていると言った。法然上人が「良忍上人は我々より先にお生まれになった方ですので」と言ったところ叡空はたいそう立腹したとある。
 叡空との論争から読み取れる事は多い。まず叡空は念佛の人であった。叡空の師の良忍は元は比叡山東塔の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で不断念佛行(ふだんねんぶつぎょう)を修行する堂僧で、後に一人の念佛が万人の念佛に融通し合うという融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを開眼し現在の融通念佛宗の開祖となられた方である。
 叡空自身もまた師より相承した「念佛」の教えを守っていた。しかし法然上人はその「教え」に対して反発したのである。ではその「教え」とは何であろうか?
 それを知るにはまず「念佛」という言葉がキーワードとなるのである。】
 
 以前にも法然上人は師である叡空と論争を行ったことを書きましたが、ここでもまた論争を行っています。そしていつも師の叡空は法然上人に対して腹を立てていますが、それは何故でしょうか?
 まず念佛の優劣についてがありますが、詳しい事は次号以降に書いていきたいと思います。ここで重要なポイントとなるのは叡空は師の良忍の「教え」を元にして法然上人と論争を行っているところです。
 それに対して法然上人は自らが考えた結論を元に論争を行っています。そして叡空に対して「良忍上人は先にお生まれになった方」と言いました。これは法然上人の姿勢を現している言葉となります。つまりは師の「教え」をただ守り伝えることを自分はしない、学んだ結果を元に新たな「教え」にたどり着きたいという事を言いたかったのではないでしょうか?「新たな方法論」にたどり着くには師の「教え」では不可能であるという事を示しているのです。
叡空だけでなく師の良忍までを否定するかのような法然上人に対して叡空は怒ったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-04-10 00:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)