へちま薬師日誌

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2017年 05月 11日

お知らせ

5月12日は都合によりご祈祷お休みさせていただきます。
ご了承お願いいたします。

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# by hechimayakushi | 2017-05-11 19:47 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 05日

私説法然伝28

『私説法然伝』(28)極楽への道③

 先月号では法然上人と師の叡空との論争について書きました。今月はその続きになります。

【念佛とは何か?まず言葉として「念」と「佛」が組み合わさっている。ここでの「念」とは念じること。念じるとは常に心に思うこと。常に心に思うとは、記憶し忘れないという事である。常に心に佛を思う、記憶し忘れないという「行い」が本来的な意義であった。念佛の歴史は古く、元来は釈尊(ブッダ)に対する「念佛」であった。釈尊に対しての佛弟子達の「念佛」は「南無佛(なむぶつ)」と唱え称(たた)えたものとされる。それはあくまで追憶であったり帰依であったり讃嘆(さんたん)の意味があったであろう。やがて釈尊の入滅(にゅうめつ)と共に「念佛」の持つ意義が変化していく。人間としての釈尊への「念佛」から佛教の根本的なもの「法」(教え・真理)としての釈尊への「念佛」へと変化していったである。特に「佛」は人々の苦悩をよくすくい取る「大慈悲(だいじひ)」をそなえている、その大慈悲を自分自身も実践しなければならないという気持ちを目指すための「念佛」となっていたとされる。やがて大乗佛教の発展により念佛の対象となる佛が広がっていった。「阿弥陀佛」への「念佛」の起こりである。
では阿弥陀佛への「念佛」とは何であるのか?】
 
 先月に書いた法然上人と師の叡空との論争の火種は「念佛」についてでした。
 この「念佛」とは一体何であるのか、と掘り下げていかなければ法然上人と叡空の論争の中身が見えてこないと思います。
 「念佛」という言葉を分解して考えてみますと、念には記憶し忘れないという意義が本来的にあり、佛とは元々は釈尊を指していましたが釈尊入滅後は「人間」釈尊からその教えそのものを念じていくことに変化したと考えられています。
 そして佛教の歴史が進むにつれて「佛」というものが教えに対する解釈の「深度」が深まるにつれ多様性を増していきました。そしてその「佛」に対して「念佛」もまた「深度」を増していったと考えています。
そこで登場しますのが「阿弥陀佛」となるのです。「阿弥陀佛」を「念佛」する、現在の常識で言えば当たり前のように思われますが、それがどのようなものであったのか?そこが重要となってくるのです。
 法然上人が新しい方法論を模索される中で乗り越えなければならなかったのがこの「阿弥陀佛」と「念佛」となるのです。

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# by hechimayakushi | 2017-05-05 19:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 10日

私説法然伝27

『私説法然伝』(27)極楽への道②

 先月号では法然上人が経蔵に籠もられて、自らを「三学の器(うつわもの)に非ず」と内省されていくことについて書きました。今月はその続きになります。

【別の方法論を求められた法然上人だが、一体どのようにその模索をされたのだろうか?
 『法然上人行状絵図』にはある日、法然上人が師の叡空と論争を行った記述がある。称名念佛(しょうみょうねんぶつ)と観想念佛(かんそうねんぶつ)の優劣についてである。叡空は自らの師の良忍(りょうにん)の説をもって観想念佛が優れていると言い、法然上人は称名念佛こそが優れていると言った。法然上人が「良忍上人は我々より先にお生まれになった方ですので」と言ったところ叡空はたいそう立腹したとある。
 叡空との論争から読み取れる事は多い。まず叡空は念佛の人であった。叡空の師の良忍は元は比叡山東塔の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で不断念佛行(ふだんねんぶつぎょう)を修行する堂僧で、後に一人の念佛が万人の念佛に融通し合うという融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを開眼し現在の融通念佛宗の開祖となられた方である。
 叡空自身もまた師より相承した「念佛」の教えを守っていた。しかし法然上人はその「教え」に対して反発したのである。ではその「教え」とは何であろうか?
 それを知るにはまず「念佛」という言葉がキーワードとなるのである。】
 
 以前にも法然上人は師である叡空と論争を行ったことを書きましたが、ここでもまた論争を行っています。そしていつも師の叡空は法然上人に対して腹を立てていますが、それは何故でしょうか?
 まず念佛の優劣についてがありますが、詳しい事は次号以降に書いていきたいと思います。ここで重要なポイントとなるのは叡空は師の良忍の「教え」を元にして法然上人と論争を行っているところです。
 それに対して法然上人は自らが考えた結論を元に論争を行っています。そして叡空に対して「良忍上人は先にお生まれになった方」と言いました。これは法然上人の姿勢を現している言葉となります。つまりは師の「教え」をただ守り伝えることを自分はしない、学んだ結果を元に新たな「教え」にたどり着きたいという事を言いたかったのではないでしょうか?「新たな方法論」にたどり着くには師の「教え」では不可能であるという事を示しているのです。
叡空だけでなく師の良忍までを否定するかのような法然上人に対して叡空は怒ったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-04-10 00:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 03月 12日

私説法然伝26

『私説法然伝』(26)極楽への道①

 先月号では保元の乱から法然上人と高橋茂右衛門との出会いについて書きました。今月はその続きになります。

【答えを見つけることができない。それは法然上人にとって苦難であり、苦悩であり、絶望的な状況であったと思われる。しかし保元元年(ほうげんがんねん)の旅は法然上人にとって一つの道を指し示されたと言える。
 まず今まで自分自身の中で「常識」であった考え方と方法論との決別を決意することができたと考えられる。
 そして自分自身が今まで知らなかった何か別の「答え」を見出さなければならないということである。
比叡山に戻られた法然上人は経蔵(きょうぞう)へ籠もられたという。だがそれは以前のように「自分自身のさとり(佛となる)を求めるもの」または「僧侶としての修学に励むこと」とは違った意味合いを持っていたに違いない。「衆生(しゅじょう)」という「生きとし生けるもの全て」を対象とした「模索」が行われたのではないだろうか?
 もちろんその「模索」に至るプロセスは存在したであろう。結果として保元元年(一一五六年)から二十年近い時間をかけて承安(じょうあん)五年(一一七五年)の春に法然上人は「答え」に到達される。一つの答えに到達するまでには膨大なプロセスが存在する。 法然上人のプロセスにおいて重要な事が一つあった。それは「常識」との決別である。それは「三学の器(うつわもの)に非ず」という法然上人の言葉に集約されている。三学とは仏教における方法論の全てを表し、自分自身はその方法論では「さとり」に到達できない者であるという自覚をされたことである。それを言い換えるならば法然上人は自らが「凡夫(ぼんぷ)」であると言われたことになる。そしてそれが意味することは三学の放棄となる。 法然上人は三学ではない別の方法論を模索されることになったのだ。】
 

 法然上人は長い年月をかけて一つの答えに到達されることになるのですが、その「答え」だけを見ても実は「正解」がよくわからないのではないでしょうか?
 数学で言うならば、答えとなる数字だけを見ても、その答えに至る公式や道筋も見なければそれが本当に正しい答えなのかどうかの判別がつかない事に似ているかもしれません。
 法然上人が「正解」に至るにはまず「三学の器に非ず」つまり「凡夫」という概念に始まるプロセスが必要となったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-03-12 23:02 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 09日

私説法然伝25

『私説法然伝』(25)法然誕生⑨

 先月号では保元の乱について書きました。今月はその続きになります。

【保元(ほうげん)元年(一一五六年)夏に巻き起こった一連の争乱は終結した。その時、法然上人は清涼寺への参籠、そして遊学を終え比叡山黒谷の叡空の室へと戻っていた。
その時、法然上人は一体何を考え、何をなさろうとされていたのであろうか?
世の中の流れが変わろうとしていた時期に、法然上人もまた変わらざるおえなかったのであった。
 西山浄土宗総本山光明寺に法然上人の南都への遊学にまつわる一つの話しが伝わっている。清涼寺での参籠の後、南都へと向かうのだが、今の西山浄土宗総本山光明寺のある粟生(あお)の地へさしかかった時には日が沈みかけていた。その時に宿を求めたのが村役であった高橋茂右衛門(たかはしもえもん)宅であったという。訪れた法然上人に応対した下男は法然上人を追い出し、仕方なく門前にて法然上人は一夜を過ごそうとされた。旅の疲れから眠られた法然上人の両眼から光が放たれたという。それに驚いた主の高橋茂右衛門は法然上人を招き入れ、旅の目的を聞いた。法然上人の志しの高さに感銘を受けた高橋茂右衛門は法然上人が追い求める答えが見つかった時には真っ先にこの高橋茂右衛門に教えてくださいと願ったという。
 法然上人が再び高橋茂右衛門宅を訪れるのはそれから二十年の月日が経っていた。法然上人が答えを見つけられ、比叡山延暦寺を下りられてからのことである。】
 
 法然上人は答えを見つけることなく比叡山延暦寺へと帰ることになりましたが、答えに至る道筋には出会われたと言えるのではないかと考えます。嵯峨の清涼寺で出会った人々、そして高橋茂右衛門との出会い。これは法然上人にとって初めて「他者」が法然上人の「求法(ぐほう)」の中に大きなウエイトを占めることになったきっかけであると推察するのです。法然上人にとって佛教とは、あくまで自己完結するものであったのが、そうでなくなった。「誰でも」という観点、
「衆生(しゅじょう)」という意識が芽生えたのが保元元年の南都遊学であり、その年は当に世の中の変換点の年でもあったのです。
 黒谷へと戻った法然上人にとって、これからが本当の苦しさの始まりとも言えるのですが、それは言い換えれば産みの苦しさとも言うべきものとなります。
 比叡山へと上った勢至丸が、成長し「法然」と成っていく、その象徴的な出来事が保元元年の南都遊学であったと思います。この旅で法然上人が得た経験はやがて日本の宗教革命を巻き起こす第一歩であったと言えるのです。

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# by hechimayakushi | 2017-02-09 23:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)