へちま薬師日誌

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2017年 03月 12日

私説法然伝26

『私説法然伝』(26)極楽への道①

 先月号では保元の乱から法然上人と高橋茂右衛門との出会いについて書きました。今月はその続きになります。

【答えを見つけることができない。それは法然上人にとって苦難であり、苦悩であり、絶望的な状況であったと思われる。しかし保元元年(ほうげんがんねん)の旅は法然上人にとって一つの道を指し示されたと言える。
 まず今まで自分自身の中で「常識」であった考え方と方法論との決別を決意することができたと考えられる。
 そして自分自身が今まで知らなかった何か別の「答え」を見出さなければならないということである。
比叡山に戻られた法然上人は経蔵(きょうぞう)へ籠もられたという。だがそれは以前のように「自分自身のさとり(佛となる)を求めるもの」または「僧侶としての修学に励むこと」とは違った意味合いを持っていたに違いない。「衆生(しゅじょう)」という「生きとし生けるもの全て」を対象とした「模索」が行われたのではないだろうか?
 もちろんその「模索」に至るプロセスは存在したであろう。結果として保元元年(一一五六年)から二十年近い時間をかけて承安(じょうあん)五年(一一七五年)の春に法然上人は「答え」に到達される。一つの答えに到達するまでには膨大なプロセスが存在する。 法然上人のプロセスにおいて重要な事が一つあった。それは「常識」との決別である。それは「三学の器(うつわもの)に非ず」という法然上人の言葉に集約されている。三学とは仏教における方法論の全てを表し、自分自身はその方法論では「さとり」に到達できない者であるという自覚をされたことである。それを言い換えるならば法然上人は自らが「凡夫(ぼんぷ)」であると言われたことになる。そしてそれが意味することは三学の放棄となる。 法然上人は三学ではない別の方法論を模索されることになったのだ。】
 

 法然上人は長い年月をかけて一つの答えに到達されることになるのですが、その「答え」だけを見ても実は「正解」がよくわからないのではないでしょうか?
 数学で言うならば、答えとなる数字だけを見ても、その答えに至る公式や道筋も見なければそれが本当に正しい答えなのかどうかの判別がつかない事に似ているかもしれません。
 法然上人が「正解」に至るにはまず「三学の器に非ず」つまり「凡夫」という概念に始まるプロセスが必要となったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-03-12 23:02 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 09日

私説法然伝25

『私説法然伝』(25)法然誕生⑨

 先月号では保元の乱について書きました。今月はその続きになります。

【保元(ほうげん)元年(一一五六年)夏に巻き起こった一連の争乱は終結した。その時、法然上人は清涼寺への参籠、そして遊学を終え比叡山黒谷の叡空の室へと戻っていた。
その時、法然上人は一体何を考え、何をなさろうとされていたのであろうか?
世の中の流れが変わろうとしていた時期に、法然上人もまた変わらざるおえなかったのであった。
 西山浄土宗総本山光明寺に法然上人の南都への遊学にまつわる一つの話しが伝わっている。清涼寺での参籠の後、南都へと向かうのだが、今の西山浄土宗総本山光明寺のある粟生(あお)の地へさしかかった時には日が沈みかけていた。その時に宿を求めたのが村役であった高橋茂右衛門(たかはしもえもん)宅であったという。訪れた法然上人に応対した下男は法然上人を追い出し、仕方なく門前にて法然上人は一夜を過ごそうとされた。旅の疲れから眠られた法然上人の両眼から光が放たれたという。それに驚いた主の高橋茂右衛門は法然上人を招き入れ、旅の目的を聞いた。法然上人の志しの高さに感銘を受けた高橋茂右衛門は法然上人が追い求める答えが見つかった時には真っ先にこの高橋茂右衛門に教えてくださいと願ったという。
 法然上人が再び高橋茂右衛門宅を訪れるのはそれから二十年の月日が経っていた。法然上人が答えを見つけられ、比叡山延暦寺を下りられてからのことである。】
 
 法然上人は答えを見つけることなく比叡山延暦寺へと帰ることになりましたが、答えに至る道筋には出会われたと言えるのではないかと考えます。嵯峨の清涼寺で出会った人々、そして高橋茂右衛門との出会い。これは法然上人にとって初めて「他者」が法然上人の「求法(ぐほう)」の中に大きなウエイトを占めることになったきっかけであると推察するのです。法然上人にとって佛教とは、あくまで自己完結するものであったのが、そうでなくなった。「誰でも」という観点、
「衆生(しゅじょう)」という意識が芽生えたのが保元元年の南都遊学であり、その年は当に世の中の変換点の年でもあったのです。
 黒谷へと戻った法然上人にとって、これからが本当の苦しさの始まりとも言えるのですが、それは言い換えれば産みの苦しさとも言うべきものとなります。
 比叡山へと上った勢至丸が、成長し「法然」と成っていく、その象徴的な出来事が保元元年の南都遊学であったと思います。この旅で法然上人が得た経験はやがて日本の宗教革命を巻き起こす第一歩であったと言えるのです。

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# by hechimayakushi | 2017-02-09 23:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 08日

私説法然伝24

 『私説法然伝』(24)法然誕生⑧

 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。

【保元元年(一一五六年)七月二日鳥羽法皇が崩御(ほうぎょ)される。同月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使(けびいし)の平基盛(たいらのもともり)らが召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。同月八日には、忠実・頼長親子が荘園から兵を集めることを禁止する後白河天皇の綸旨(りんじ)が諸国に下されると同時に、高階俊成(たかしなとしなり)と源義朝(みなもとのよしとも)が東三条殿を差し押さえた。頼長卿を謀反人としたのである。藤原摂関家の氏の長者が謀反人とされるのは前代未聞のことであった。
 それらは後白河天皇の綸旨・勅命でなされたが、その背後には側近の信西入道がいたとされる。同月九日の深夜、崇徳上皇は鳥羽離宮田中殿を脱出し、白河北殿へと入った。打つ手がなくなった頼長卿も同月十日白河北殿へと入る。もはや崇徳上皇の下で挙兵するしか事態を打開する手段がなくなったのである。しかし私兵しかいない崇徳上皇側と後白河天皇側との兵力の差は歴然としていた。崇徳上皇は平家棟梁たる平清盛(たいらのきよもり)の支持を期待していたとされる。当時の武家における最大勢力が平家であった。しかし平清盛は後白河天皇側へ付いてしまう。この時点で趨勢は決まったも同然であった。同月十日、後白河天皇の召集に応じて後白河天皇の本拠地高松殿に警護役であった源義朝をはじめ、平清盛ら主だった武士が集まる。軍議において信西入道、源義朝らが夜襲を主張し、十一日未明には白河北殿を急襲する。崇徳上皇側の源為朝(みなもとのためとも)らの活躍もあり、後白河天皇側は攻めあぐねるが、白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち、延焼させ白河北殿を落とすことに成功した。
 崇徳上皇、頼長卿らは逃亡し、忠実卿も宇治より南都へと逃亡する。その日のうちに戦功褒賞と忠通卿を氏の長者とする宣旨が下されたが、氏の長者の地位は藤原摂関家が決めるものとしてこれを辞退している。同月十三日には崇徳上皇が異母弟覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼るが断られ、源重成(みなもとのしげなり)監視下に置かれる。頼長卿は首に矢傷を負いながらも南都まで逃げ延びるが、忠実卿に会うことすら拒絶され絶命する。同月十九日謀反人とされた忠実卿の持つ所領の没収を避けるため、忠通卿は先に下された氏の長者任命の宣旨を受け入れた。同月二十三日に崇徳上皇は讃岐配流となった。
 後に保元の乱と呼ばれる戦いは終わり、結果的に藤原摂関家の決定的な没落と、武家の躍進、そして後白河天皇を中心とする新体制がスタートすることになるのである。】

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# by hechimayakushi | 2017-01-08 00:08 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 12月 11日

私説法然伝23

『私説法然伝』(23) 法然誕生⑦

 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。

【久安(きゅうあん)六年(一一五〇年)一月四日のことである。近衛天皇が元服し頼長卿の長女多子(まさるこ)が同月十日に入内する。そして十九日には女御となる。それに対して忠通卿は二月に藤原伊通(これみち)卿の娘呈子(しめこ)を入内させた。これにより忠通・頼長兄弟の対立は修復不可能となったのである。そして忠実卿は強硬手段に出る。藤原摂関家の象徴である東三条殿(ひがしさんじょうでん)や朱器台盤(しゅきだいばん)を接収し氏の長者としての地位を剥奪した。姉の藤原泰子(高陽院)も頼長につき、鳥羽院も終始曖昧な態度をとり、忠通卿は関白に留めたまま頼長卿に内覧の宣旨を下すという事態に至った。
 兄弟で関白職と内覧を分けるという異常事態ではあるが、これにより頼長卿は政治的実権を握ることができたことは間違いない。頼長卿が目指したのは何か?藤原摂関家の権勢の回復もさることながら、最も重視したのは律(りつ)と令(りょう)、そして儒教的な思想に基づく政治体制である。つまり法律と倫理による政治を行おうとしたのである。
 その姿勢は論理的に明確かつ理想的ではあったが、周囲の理解を得ることはできず、鳥羽院の寵臣の藤原家成卿との争いもあり、鳥羽院より疎んじられることになっていく。やがて政治的に孤立し、それが争乱の一因となるのである。
 久寿二年(一一五五年)七月、近衛天皇が崩御する。後継者を決める王者議定(おうじゃぎじょう)の場に参加したのは源雅定(みなもとのまささだ)卿と三条公教(さんじょうきみのり)卿で、いずれも美福門院得子(びふくもんいんとくこ)と関係の深い公卿だった。候補としては重仁(しげひと)親王が最有力だったが、美福門院得子のもう一人の養子・守仁王(もりひとおう・後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁(まさひと)親王が立太子しないまま二十九歳で即位することになった(後白河天皇)。 突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西入道の思惑があったと言われる。
 世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流れていた。頼長卿は内覧の宣旨を解かれ政治的に失脚し、忠実卿は頼長卿を謹慎させ連絡役である泰子(高陽院)を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、十二月に泰子(高陽院)が逝去したことでその望みを絶たれた。
 兄弟間の対立や頼長卿の清廉なれど独善的な政治によって藤原摂関家そのものの力をまた失っていったのである。
 そのような状況の中で保元元年(一一五六年)、鳥羽法皇の崩御となったのである。それは藤原摂関家の「権勢」の崩壊の序章となるのであった】

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# by hechimayakushi | 2016-12-11 23:24 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 12日

平成28年糸瓜薬師御正当

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今年も無事に糸瓜薬師御正当が勤修されました。
ご参拝くだされた皆様に厚く御礼申し上げます。


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# by hechimayakushi | 2016-11-12 11:55 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)