へちま薬師日誌

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2016年 12月 11日

私説法然伝23

『私説法然伝』(23) 法然誕生⑦

 先月号では藤原摂関家における不協和音について書きました。今月はその続きになります。

【久安(きゅうあん)六年(一一五〇年)一月四日のことである。近衛天皇が元服し頼長卿の長女多子(まさるこ)が同月十日に入内する。そして十九日には女御となる。それに対して忠通卿は二月に藤原伊通(これみち)卿の娘呈子(しめこ)を入内させた。これにより忠通・頼長兄弟の対立は修復不可能となったのである。そして忠実卿は強硬手段に出る。藤原摂関家の象徴である東三条殿(ひがしさんじょうでん)や朱器台盤(しゅきだいばん)を接収し氏の長者としての地位を剥奪した。姉の藤原泰子(高陽院)も頼長につき、鳥羽院も終始曖昧な態度をとり、忠通卿は関白に留めたまま頼長卿に内覧の宣旨を下すという事態に至った。
 兄弟で関白職と内覧を分けるという異常事態ではあるが、これにより頼長卿は政治的実権を握ることができたことは間違いない。頼長卿が目指したのは何か?藤原摂関家の権勢の回復もさることながら、最も重視したのは律(りつ)と令(りょう)、そして儒教的な思想に基づく政治体制である。つまり法律と倫理による政治を行おうとしたのである。
 その姿勢は論理的に明確かつ理想的ではあったが、周囲の理解を得ることはできず、鳥羽院の寵臣の藤原家成卿との争いもあり、鳥羽院より疎んじられることになっていく。やがて政治的に孤立し、それが争乱の一因となるのである。
 久寿二年(一一五五年)七月、近衛天皇が崩御する。後継者を決める王者議定(おうじゃぎじょう)の場に参加したのは源雅定(みなもとのまささだ)卿と三条公教(さんじょうきみのり)卿で、いずれも美福門院得子(びふくもんいんとくこ)と関係の深い公卿だった。候補としては重仁(しげひと)親王が最有力だったが、美福門院得子のもう一人の養子・守仁王(もりひとおう・後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁(まさひと)親王が立太子しないまま二十九歳で即位することになった(後白河天皇)。 突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西入道の思惑があったと言われる。
 世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流れていた。頼長卿は内覧の宣旨を解かれ政治的に失脚し、忠実卿は頼長卿を謹慎させ連絡役である泰子(高陽院)を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、十二月に泰子(高陽院)が逝去したことでその望みを絶たれた。
 兄弟間の対立や頼長卿の清廉なれど独善的な政治によって藤原摂関家そのものの力をまた失っていったのである。
 そのような状況の中で保元元年(一一五六年)、鳥羽法皇の崩御となったのである。それは藤原摂関家の「権勢」の崩壊の序章となるのであった】

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# by hechimayakushi | 2016-12-11 23:24 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 12日

平成28年糸瓜薬師御正当

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今年も無事に糸瓜薬師御正当が勤修されました。
ご参拝くだされた皆様に厚く御礼申し上げます。


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# by hechimayakushi | 2016-11-12 11:55 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 12日

私説法然伝22

『私説法然伝』(22)法然誕生⑥

 先月号では鳥羽法皇の崩御、保元元年における歴史的状況を書きました。今月はその続きになります。

【藤原摂関家の権勢は藤原道長・頼通親子時代に頂点を迎えていたが、院政期にはその力を落としていた。諸説あるが白河法皇の父である後三条天皇による親政の最大の特徴は「延久(えんきゅう)の荘園整理令」と呼ばれる記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を設置した一連の改革によって藤原摂関家の経済的基盤であった各地の荘園をいくつも失ったことによるものである。そして白河院の御代より本格的な院政期に入ると復権の機会を完全に失う事になった。 
 白河院政期から鳥羽院政期にかけて「氏の長者」として藤原摂関家を率いていたのが藤原忠実(ただざね)卿である。忠実卿は叔父である興福寺別当の覚信(かくしん)の罷免問題をとりなそうとして白河院の怒りを買うことになり、若くして藤原摂関家を継ぎ復権を目指そうとしていた矢先に政務への関与の一切を拒否されることとなった。その後も白河院時代はまさに不遇の時代を過ごすこととなる。ついには白河院の逆鱗に触れ、息子の藤原忠通(ただみち)卿を氏の長者とし、忠実卿は宇治にて蟄居となってしまった。だが鳥羽院政のはじまりと共に内覧(ないらん)(天皇に上奏される文章を先に見ること・役職の一つとして摂政・関白が内覧の宣旨(せんじ)を受けることが多い)となり政権に復帰を果たす。だが、関白職は息子の忠通卿が勤めている。その関係は次第に悪化していくこととなる。忠通卿に実子がなかったため、忠実卿は忠通卿の弟となる藤原頼長(よりなが)卿を忠通卿の養子とする。だが、忠通卿に実子の藤原基実が生まれると我が子に藤原摂関家の氏の長者の地位と関白職を継がせたく思い、忠実・頼長親子との関係性は悪化し最悪の状況となった。
 不遇の時代を過ごした忠実卿の悲願はただ一つ藤原摂関家の復権であった。その為には二つ重要となる点があった。一つは天皇の外戚となることで、これは娘の泰子が鳥羽上皇の后となることで達成できた。もう一つは権力の集中化である。その為には忠通卿では心許なかった。後に「悪左府(あくさふ)」と呼ばれるほど苛烈にして妥協を知らない性格でありながら甥となる天台座主慈円から「日本一の大学生(だいがくしょう)」と評されるほどの学識の高さを誇った頼長卿の存在が不可欠だと考えた忠実卿は何とかして頼長卿に政治的な実権を握らせたかったに違いない。
 だが忠通卿からしたら、自分を退けようとする父のやり方には不信感を抱かざるおえなかったであろう。やがて決定的な事件が起こってしまう。】

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# by hechimayakushi | 2016-11-12 11:38 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 10月 13日

私説法然伝21

『私説法然伝』(21)法然誕生⑤

 先月号では法然上人が奈良をはじめとする各地の著名な僧侶を訪ね「求(ぐ)法(ほう)」、言い変えれば法然上人にとっての「佛教的な答え」を求めましたが、その答えを得ることができなかったところまで書きました。
 法然上人は再び比叡山延暦寺の黒谷へ戻ることになるのです。

【法然上人は答えが見つからぬまま比叡山黒谷へと戻った。その時の法然上人は一体何を思い、何を考えていたのだろうか。
 法然上人の清涼寺参籠、そして南都諸宗遊学は確実に法然上人に変化をもたらした。
 少なくとも今までの方法論では確実に行き詰まることは明白であった。つまり自分自身の力や能力で佛教的な「さとり」の境涯への到達は不可能だと法然上人は思い知ったのである。そして清涼寺で出会った人々、僧侶として専門に佛教を修めることは出来ないがひたすら「佛」を求める人々はどうすれば良いのか?という命題である。 法然上人の中でさまざまな疑問点が生まれたのである。
 そんな中、時代も確実に変化していた。 保元元年(ほうげんがんねん・一一五六年)七月二日、治天の君として君臨していた鳥羽法皇が崩御する。それはまるで堰(せき)が壊れたかのようであった。長く続いた「院政政治」の崩壊の始まりである。それは次の「治天の君」を決める争いの始まりであり、次の「時代の潮流」を決める争いの始まりでもあった。
 鳥羽法皇と中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間の子であった崇徳(すとく)上皇はこの時すでに退位されていた。鳥羽法皇が寵愛した美福門院得子(びふくもんいんとくこ)との子である近衛天皇を即位させるためである。近衛天皇は崇徳上皇の中宮(天皇の妻・后)である藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子としての即位となった。しかし「皇太子」としての即位ではなく「皇太弟」としての即位であった。これは崇徳上皇による院政が不可能であることを示している。つまり鳥羽法皇が実権を握り続け、崇徳上皇を政治から退けたのである。近衛天皇即位の翌年には待賢門院璋子は美福門院得子呪詛の嫌疑で出家に追い込まれたのである。
 崇徳上皇はひたすら鳥羽法皇の崩御を待ち望んでいたに違いない。そこまでの思いはなくとも、鳥羽法皇の次は自分が治天の君として君臨する、そう思い描いていたことは間違いない。
 しかし、事態はそう簡単ではなかった。長く続いた院政下でひたすら耐え続け、復権の日を待ち望んでいたのが藤原摂関家である。だがその藤原摂関家そのものが二分されていたのである。】

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# by hechimayakushi | 2016-10-13 16:27 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 09月 09日

私説法然伝20

『私説法然伝』(20)法然誕生④

 先月号では法然上人が比叡山を下りて嵯峨(さが)の清涼寺(せいりょうじ)にて参籠の後、求法の旅へ出られるところまで書きました。
 若き日の法然上人にとって、この清涼寺での体験、そして求法(ぐほう)の旅の体験によって得られたものは大きかったことでしょう。
 旅というものは人にとって特別な体験だと言えます。法然上人にとってもまたそうであったことでしょう。
 
 【法然上人は京の都を離れ、奈良へと向かったという。奈良は京の都、つまり平安京以前の都があった場所である。日本において仏教の公式な始まりの地である。そこには南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる奈良時代に成立した諸派があった。法然上人は南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)・興福寺(こうふくじ)の蔵俊(ぞうしゅん)という僧侶を訪ねたのである。蔵俊は法然上人の知識と理解の深さに驚き、賞賛した。だがそれは法然上人が求めたかったものではなかった。法然上人はただひたすら「求法」であったのだ。奈良を離れ再び京の都へ戻り、山科の三論宗の学僧であった寛雅(かんが)を訪ね、さらに御室仁和寺の慶雅(けいが)を訪ねた。しかし、法然上人の求めた答えはそこにはなかったのである。法然上人の求めるもの、「求法」とは一体何であるのか?】

 法然上人は日本に伝わっていたありとあらゆる仏教を学ばれていました。
 当然のことながら比叡山延暦寺の根本である天台法華宗の教義だけでなく、ありとあらゆる仏教思想に及んだものであります。
 当時の感覚としては、おそらく自分が属する宗派・宗旨について学ぶ、それで一生を終えることが普通であったことでしょう。今でこそ仏教の勉強をしようと思えば何でも手に入ります。本やインターネットでいくらでも勉強できます。しかし、手に入る情報量が圧倒的に違う時代のことです。一つの事を学ぶ為に手に入る情報量が今と比べると圧倒的に少なかったことでしょう。そんな状況において法然上人の知識量は驚愕のものであったと思われます。しかし知識があっても手に入らないものが法然上人にはあったのです。その答えを求めて旅に出られたのですが、法然上人の求めた答えはどこにもありませんでした。

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# by hechimayakushi | 2016-09-09 23:00 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)