へちま薬師日誌

toujyuji.exblog.jp
ブログトップ
2016年 11月 12日

私説法然伝22

『私説法然伝』(22)法然誕生⑥

 先月号では鳥羽法皇の崩御、保元元年における歴史的状況を書きました。今月はその続きになります。

【藤原摂関家の権勢は藤原道長・頼通親子時代に頂点を迎えていたが、院政期にはその力を落としていた。諸説あるが白河法皇の父である後三条天皇による親政の最大の特徴は「延久(えんきゅう)の荘園整理令」と呼ばれる記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を設置した一連の改革によって藤原摂関家の経済的基盤であった各地の荘園をいくつも失ったことによるものである。そして白河院の御代より本格的な院政期に入ると復権の機会を完全に失う事になった。 
 白河院政期から鳥羽院政期にかけて「氏の長者」として藤原摂関家を率いていたのが藤原忠実(ただざね)卿である。忠実卿は叔父である興福寺別当の覚信(かくしん)の罷免問題をとりなそうとして白河院の怒りを買うことになり、若くして藤原摂関家を継ぎ復権を目指そうとしていた矢先に政務への関与の一切を拒否されることとなった。その後も白河院時代はまさに不遇の時代を過ごすこととなる。ついには白河院の逆鱗に触れ、息子の藤原忠通(ただみち)卿を氏の長者とし、忠実卿は宇治にて蟄居となってしまった。だが鳥羽院政のはじまりと共に内覧(ないらん)(天皇に上奏される文章を先に見ること・役職の一つとして摂政・関白が内覧の宣旨(せんじ)を受けることが多い)となり政権に復帰を果たす。だが、関白職は息子の忠通卿が勤めている。その関係は次第に悪化していくこととなる。忠通卿に実子がなかったため、忠実卿は忠通卿の弟となる藤原頼長(よりなが)卿を忠通卿の養子とする。だが、忠通卿に実子の藤原基実が生まれると我が子に藤原摂関家の氏の長者の地位と関白職を継がせたく思い、忠実・頼長親子との関係性は悪化し最悪の状況となった。
 不遇の時代を過ごした忠実卿の悲願はただ一つ藤原摂関家の復権であった。その為には二つ重要となる点があった。一つは天皇の外戚となることで、これは娘の泰子が鳥羽上皇の后となることで達成できた。もう一つは権力の集中化である。その為には忠通卿では心許なかった。後に「悪左府(あくさふ)」と呼ばれるほど苛烈にして妥協を知らない性格でありながら甥となる天台座主慈円から「日本一の大学生(だいがくしょう)」と評されるほどの学識の高さを誇った頼長卿の存在が不可欠だと考えた忠実卿は何とかして頼長卿に政治的な実権を握らせたかったに違いない。
 だが忠通卿からしたら、自分を退けようとする父のやり方には不信感を抱かざるおえなかったであろう。やがて決定的な事件が起こってしまう。】

[PR]

# by hechimayakushi | 2016-11-12 11:38 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 10月 13日

私説法然伝21

『私説法然伝』(21)法然誕生⑤

 先月号では法然上人が奈良をはじめとする各地の著名な僧侶を訪ね「求(ぐ)法(ほう)」、言い変えれば法然上人にとっての「佛教的な答え」を求めましたが、その答えを得ることができなかったところまで書きました。
 法然上人は再び比叡山延暦寺の黒谷へ戻ることになるのです。

【法然上人は答えが見つからぬまま比叡山黒谷へと戻った。その時の法然上人は一体何を思い、何を考えていたのだろうか。
 法然上人の清涼寺参籠、そして南都諸宗遊学は確実に法然上人に変化をもたらした。
 少なくとも今までの方法論では確実に行き詰まることは明白であった。つまり自分自身の力や能力で佛教的な「さとり」の境涯への到達は不可能だと法然上人は思い知ったのである。そして清涼寺で出会った人々、僧侶として専門に佛教を修めることは出来ないがひたすら「佛」を求める人々はどうすれば良いのか?という命題である。 法然上人の中でさまざまな疑問点が生まれたのである。
 そんな中、時代も確実に変化していた。 保元元年(ほうげんがんねん・一一五六年)七月二日、治天の君として君臨していた鳥羽法皇が崩御する。それはまるで堰(せき)が壊れたかのようであった。長く続いた「院政政治」の崩壊の始まりである。それは次の「治天の君」を決める争いの始まりであり、次の「時代の潮流」を決める争いの始まりでもあった。
 鳥羽法皇と中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間の子であった崇徳(すとく)上皇はこの時すでに退位されていた。鳥羽法皇が寵愛した美福門院得子(びふくもんいんとくこ)との子である近衛天皇を即位させるためである。近衛天皇は崇徳上皇の中宮(天皇の妻・后)である藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子としての即位となった。しかし「皇太子」としての即位ではなく「皇太弟」としての即位であった。これは崇徳上皇による院政が不可能であることを示している。つまり鳥羽法皇が実権を握り続け、崇徳上皇を政治から退けたのである。近衛天皇即位の翌年には待賢門院璋子は美福門院得子呪詛の嫌疑で出家に追い込まれたのである。
 崇徳上皇はひたすら鳥羽法皇の崩御を待ち望んでいたに違いない。そこまでの思いはなくとも、鳥羽法皇の次は自分が治天の君として君臨する、そう思い描いていたことは間違いない。
 しかし、事態はそう簡単ではなかった。長く続いた院政下でひたすら耐え続け、復権の日を待ち望んでいたのが藤原摂関家である。だがその藤原摂関家そのものが二分されていたのである。】

[PR]

# by hechimayakushi | 2016-10-13 16:27 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 09月 09日

私説法然伝20

『私説法然伝』(20)法然誕生④

 先月号では法然上人が比叡山を下りて嵯峨(さが)の清涼寺(せいりょうじ)にて参籠の後、求法の旅へ出られるところまで書きました。
 若き日の法然上人にとって、この清涼寺での体験、そして求法(ぐほう)の旅の体験によって得られたものは大きかったことでしょう。
 旅というものは人にとって特別な体験だと言えます。法然上人にとってもまたそうであったことでしょう。
 
 【法然上人は京の都を離れ、奈良へと向かったという。奈良は京の都、つまり平安京以前の都があった場所である。日本において仏教の公式な始まりの地である。そこには南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる奈良時代に成立した諸派があった。法然上人は南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)・興福寺(こうふくじ)の蔵俊(ぞうしゅん)という僧侶を訪ねたのである。蔵俊は法然上人の知識と理解の深さに驚き、賞賛した。だがそれは法然上人が求めたかったものではなかった。法然上人はただひたすら「求法」であったのだ。奈良を離れ再び京の都へ戻り、山科の三論宗の学僧であった寛雅(かんが)を訪ね、さらに御室仁和寺の慶雅(けいが)を訪ねた。しかし、法然上人の求めた答えはそこにはなかったのである。法然上人の求めるもの、「求法」とは一体何であるのか?】

 法然上人は日本に伝わっていたありとあらゆる仏教を学ばれていました。
 当然のことながら比叡山延暦寺の根本である天台法華宗の教義だけでなく、ありとあらゆる仏教思想に及んだものであります。
 当時の感覚としては、おそらく自分が属する宗派・宗旨について学ぶ、それで一生を終えることが普通であったことでしょう。今でこそ仏教の勉強をしようと思えば何でも手に入ります。本やインターネットでいくらでも勉強できます。しかし、手に入る情報量が圧倒的に違う時代のことです。一つの事を学ぶ為に手に入る情報量が今と比べると圧倒的に少なかったことでしょう。そんな状況において法然上人の知識量は驚愕のものであったと思われます。しかし知識があっても手に入らないものが法然上人にはあったのです。その答えを求めて旅に出られたのですが、法然上人の求めた答えはどこにもありませんでした。

[PR]

# by hechimayakushi | 2016-09-09 23:00 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 08月 09日

私説法然伝19

『私説法然伝』(19)法然誕生③
    
 先月号では法然上人が比叡山を下りて嵯峨(さが)の清涼寺(せいりょうじ)へ向かわれる決意をされたところまで書きました。
 この嵯峨の清涼寺とは源氏物語にて主人公の光源氏が建立した「御堂(みどう)」であるとも言われている寺院です。別名を嵯峨釈迦堂とも言い、釈尊在世のお姿を刻まれたと伝えられる三国伝来の釈迦像が古来より人々の信仰を集めていたのです。

【嵯峨の清涼寺には身分の上下も老若男女も関係なくひたすら「佛(ほとけ)」を求める人々にあふれていたという。法然上人はそこで七日間を過ごす。自らがもとめる「さとり」への到達を祈願するためであったと伝記には記されている。法然上人がそこで何を見て、何を聞いたのであろうか?おそらくは比叡山では考えもしなかった光景ではなかろうか?比叡山延暦寺は女人禁制であった。形骸化しつつあったとはいえ、佛の教えを求める僧侶によって開かれた僧侶による僧侶のための聖域であった。嵯峨の清涼寺もまた「佛」を求める人々であふれていた。高貴な身分とされる人々も、女性も、老人も若者も区別なく、そこで「佛」を求めていたのである。その光景が法然上人に影響を与えなかったとは考えられにくい。確実に何かしらの影響・ショックを与えたに違いないのである。七日間の参籠の後、法然上人は再び「求法(ぐほう)」の旅に出ることになった】

 法然上人は「求法」の成就の祈願のために嵯峨の清涼寺へ七日間参籠したのですが、個人的な見方ですが、法然上人は黒谷の経蔵に籠もり続けていることへの限界を感じられていたのではないでしょうか。つまりは従来の「求法」、方法論に対して限界点を見出されていたのではないでしょうか。
 そして嵯峨の清涼寺での七日間は法然上人にとって極めて印象深い、また「視点」を変えるきっかけとなったとも考えられます。僧侶となり決められた方法論にて「さとり」を求めるというあり方からの脱却というものがこの嵯峨の清涼寺への参籠をきっかけとして起こってくる、そう私は捉えています。法然房源空という個人の問題から「人々」という視点への切り替えが発生したのではないでしょうか?
 嵯峨の清涼寺へ集まる人々の姿が、誰しもが「佛=さとり」を求めている、そう法然上人の目には写ったのではないでしょうか? 

[PR]

# by hechimayakushi | 2016-08-09 22:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 10日

私説法然伝18

『私説法然伝』(18)法然誕生③

 先月号では黒谷に隠遁された法然上人と、師となった叡空(えいくう)との論争の様子などを書きました。ここでの論争は主に天台宗においての戒体(戒の実体・戒を受けることによって止悪(しあく)するはたらき)についてでした。この場合の論争はあくまで天台宗における戒体の理解についてでした。叡空は法然上人に対して自身の誤りを認め謝罪していますが、法然上人の優秀さを表現したかった一節かと推察されるところです。
 
【保元(ほうげん)元年(一一五六年)のことである。法然上人も二四歳になっていた。黒谷に隠遁してから七年ほどの月日が流れていた。そんなある日のこと、法然上人は師の叡空に暇(いとま)を願い出る。求法(ぐほう)、つまり佛教における「さとり」を求めること、そのために嵯峨の清涼寺(せいりょうじ)へ詣でたいと法然上人は願ったのだ。嵯峨の清涼寺は「嵯峨釈迦堂」の名で広く信仰を集めていた。「三国伝来(さんごくでんらい)の釈迦像」、東大寺で学んだ奝然(ちょうねん)が宋へ渡りインドの優填王(うでんおう)が釈尊在世の姿を写し造らせたという釈迦像を模刻した釈迦像が安置されていたことから嵯峨釈迦堂の名で親しまれていたのである。
 何故法然上人は嵯峨の清涼寺へ行かなければならなかったのか?法然上人は黒谷にて経蔵(きょうぞう・報恩蔵)にこもり、ひたすら一切経を学んでいた。それはただひたすら「さとり」を求めてのことであった。
 叔父の観覚の下へ入り、比叡山へ登ってから十数年がたっていた。その時に法然上人の心情がどのようなものであったのかは今となってはわからないが、嵯峨の清涼寺へどうしても行かなければ何ともならなくなってしまったのではないだろうか?
 叡空は法然上人に嵯峨の清涼寺へ詣でることを許可し、法然上人は数年ぶりに比叡山を下ることになったのである】

 法然上人は黒谷に隠遁されてからは経蔵(経典・書物を収めたところ)にこもり、一切経(佛教の経典の全てを意味する)をひたすら学んでおられたと伝えられています。佛教の実践過程、つまり「さとり」へ到達するために必要不可欠となるのが「智慧(ちえ)」となります。この「智慧」には「聞慧(もんえ)・思慧(しえ)・修慧(しゅうえ)」の三段階があり、聞は釈尊の教えを聞くことで、つまりは釈尊の教えを記された経典を学ぶこと、思慧はその教えを思惟すること、修慧は得られた智慧の実践とでも言うべきものです。これをまとめて「聞思修(もんししゅ)」とも言います。法然上人は経蔵にて「聞慧」を求められていたのです。その経蔵を出て清涼寺へと行こうと決意されたところの真意は一体何だったのでしょうか?

[PR]

# by hechimayakushi | 2016-07-10 22:29 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)