へちま薬師日誌

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2016年 06月 11日

私説法然伝17

『私説法然伝』(17) 法然誕生②

 先月号では法然上人の誕生、天台宗僧侶である法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の誕生について書きました。
 法然房源空の「法然房」は房号(ぼうごう)と言い、通称名となります。房には僧侶の寝起きする場所の意味があります。複数人の僧侶が僧坊にいる時に、そこを取り仕切る役を「房主(ぼうず)」と言うようになり、僧侶の通称の「坊主」という言葉が生まれました。僧名(諱(いみな))となった「源空(げんくう)」を現在では空号(くうごう)と言い、浄土宗西山派の僧侶が受戒(円頓戒を相承すること)すると、この空号をたまわります。
 法然房源空となった法然上人は一体どのような心持ちであったのでしょうか?隠遁された後はどのように過ごされていたのでしょうか?
 
黒谷に隠遁した法然上人は、名利を捨てひたすら出離・解脱を目指されたという。つまり佛教における出家者の目標である煩悩を原因とする苦しみの状態から、佛教の修学と実践によって苦しみの無い状態を目指されたのである。その為に一切経(大蔵経と言い仏教経典の総称)を何度も読み返したという。その理解力は抜きん出たものと伝記には記されている。
 ある時には師となっていた叡空と論争に及ぶこともあったという。円頓一実(えんどんいちじつ)の戒体(かいたい・戒の実体)とは何か?という論争において、叡空は「心が実体である」と言い、法然上人は「性無作(しょうむさ)の仮色(けしき)が実体です」と言い、師の意見と対立した。円頓一実とは唯一絶対の真理(法華経の教え)はすみやかに「さとり」に至らしめることを言う。戒体とは戒の実体の意味であり、「さとり」に到らしめる動力源の一つと言えるものである。その戒体の実体について「心法戒(しんほうかい)」と「色法戒(しきほうかい)」の二種のどちらかが戒体であるのかという論争は古くからあったようだ。叡空は「心法戒」が戒の実体と言い、法の法然上人は「色法戒」であると主張しているのである。「心法戒」とは簡単に言うと性善説とでも言うべきもので人間は自然と善い心を持っているという考えである。「色法戒」は後天的なもの、受戒した後に目に見えず、表面化はされないが、悪いことをしようとした時にそれを押しとどめる作用、それが存在するので「色(しき)」(存在するもの)であるという考えである。
 この論争の時に、自説を譲らない法然上人に対して激昂した叡空は側にあった木製の枕を法然上人に投げつけたと言う。
 法然上人が自室に戻った後、叡空が姿を現し法然上人に対して「考えてみたところ法然の説が正しかった」と謝罪したと伝えられる】

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# by hechimayakushi | 2016-06-11 22:32 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 06日

私説法然伝16

『私説法然伝』(16)法然誕生①

 先月号では勢至丸こと法然上人にとっての「師」について書きました。
 今月号では法然上人にとって最も長く深い関わりをもつことになる慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)(先月号までふりがなを「えいぐう」としていましたが「えいくう」に訂正します)という方について書きたいと思います。

 慈眼房叡空は太政大臣藤原伊通(ふじわらのこれみち)の子と言われていて、幼くして比叡山延暦寺へと登り、天台法華宗の血脈を台上房延快(だいじょうぼうえんかい)から受け、大原別所(おおはらべっしょ・大原三千院)の良忍(りょうにん)に師事して円頓戒(えんどんかい)を授かり、同時に天台浄土教・浄土佛教を学び、その後は比叡山延暦寺西塔北谷に移り源信(げんしん)著作の『往生要集(おうじょうようしゅう)』を講じたと伝えられています。
 生年は不祥ですが、治承(じしょう)四年(一一七九年)没とあり、法然上人が叡空の下へ来たのが久安六年(一一五〇年)のことでした。
 法然上人は叡空に二十五年間仕えることになるのですが、その師弟関係は各伝記を読む限りではあまり良かったとは言えませんが、晩年に法然上人に坊舎(ぼうしゃ)と聖教(しょうぎょう)を譲っていることから、法然上人を認めていたことは事実でしょう。
 叡空の師であった良忍は光静房(こうせいぼう)と号し延久五年(一〇七三年)の生まれで、出身は尾張国知多郡富田(現在の愛知県東海市富木島町)で、領主の秦道武(はたみちたけ)の子として生まれ十二歳で比叡山延暦寺へ登り東塔檀那院(だんないん)の良賀(りょうが)の下で得度し名を良仁と称したが、大原隠棲後に良忍と改名したといいます。大原隠棲は良忍二十三歳の頃とされ、来迎院(らいこういん)と浄蓮華院(じょうれんげいん)を創建。毎日お念佛を六万遍唱えた念佛行者で、永久五年念佛行の最中に阿弥陀如来より直授を受け一人の念佛が万人の念佛と相則融通(あいそくゆうずう)する融通念佛(ゆうずうねんぶつ)の教えを体得して、その後は念佛勧進(ねんぶつかんじん)に勤めたと伝えられています。現在の融通念佛宗の宗祖となっています。
 つまり叡空は念佛・浄土仏教を良忍より受け継いだ僧侶であったと考えられます。法然上人は叡空より良忍から伝えれた円頓戒のみならず念佛・浄土仏教の教えを伝えられることになったと考えることが出来ます。
 叡空が法然上人と対面した時、叡空は法然上人に「法然」という名を与えることになったのです。

 【慈眼房叡空と対面した勢至丸は自らの志しを述べた。父の遺言についてと伝えられる。そして隠遁の志しの深いことを叡空に伝えた。叡空はいたく感心そし、その志しをたいそう褒めた。叡空は「法然道理(ほうねんどうり)の聖(ひじり)」と勢至丸を評している。そして「法然房」という房号を与え、比叡山におけるはじめの師の源光の「源」に叡空の「空」をとり「源空」という僧名を与えたのである。「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」法然の誕生である。】

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# by hechimayakushi | 2016-05-06 15:47 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 04月 05日

私説法然伝15

『私説法然伝』(15)比叡山延暦寺にて③

 先月号では勢至丸こと法然上人が十五歳にして出家され、天台宗の教えを学ばれ、十八歳の時に遁世(とんせい)の為に慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の元へ行かれたところまで書きました。
 法然上人の十五歳から十八歳までの間については諸説あり、断言はできかねる部分が多いのですが、大切な事は「誰の下で弟子となったのか?」ということです。
 法然上人は勢至丸時代はまず叔父の観覚(かんがく)の下にいます。比叡山延暦寺に登ると源光(げんこう)の下に入ります。そして皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の下へ行き、最後に叡空の下へ入ったというのが『法然上人行状絵図』(四十八巻伝)の説ですが、『法然上人伝記』(醍醐本・勢観坊源智(せいかんぼうげんち)著)によると法然上人の師は十五歳の時より叡空ただ一人とあります。なぜそのように違いがあるのか?
 以前にも書きましたが、僧侶とは師の下で出家して初めて僧侶となります。得度という出家するための儀式過程を経て僧侶となります。得度とは簡単に言えば師や先輩僧侶の前で戒を授かり護ることを誓うことです。ですので法然上人も戒壇院にて戒を授けられて初めて僧侶となられました。先月号で「そうであるならば戒師(かいし)は皇円阿闍梨であろうか?『法然上人行状絵図』にはその点の記述は無い」と記述したのには理由があります。
 私たち西山浄土宗の僧侶、つまり西山派と呼ばれる法然上人の弟子の證空上人門下は、證空上人が法然上人より授けられた戒(円頓戒(えんどんかい)・大乗菩薩戒)を受け継いでいます。この戒は師資相承(ししそうじょう)、つまり「流れ・系譜」があります。それを戒脈(かいみゃく)と言い、釈尊以来脈々と受け継がれた流れなのです。
 『法然上人行状絵図』第十巻に「法然上人は慈覚大師円仁(じがくだいしえんにん)より数えて九代目の円頓戒の正当な後継者」というくだりがあり、法然上人は慈覚大師円仁の戒脈を受け継いでいるということになります。
 この戒脈、円頓戒の流れはいくつかあり、慈覚大師正流、恵心流(えしんりゅう)、檀那流(だんなりゅう)、三井流(みついりゅう)などがあります。法然上人が受け継いだのが慈覚大師正流で、最澄→慈覚大師円仁→慈念→慈忍→源心→禅仁→良忍→叡空→法然と相承したと法然作と伝えられる『授菩薩戒儀則(じゅぼさつかいぎそく)』(黒谷古本戒儀)等にあります。
 無論、私たちの受け継いだ戒脈も慈覚大師正流の円頓戒となります。
 話が非常にややこやしくなりました。戒脈から考えると法然上人の師といえるのは叡空であると言えるのでしょう。源光や皇円は学問や作法の師であったと考える方が自然でしょうし、学問的な師もまた諸説あります。「師」というものは僧侶にとってとても大切な存在です。戒脈を授けられる師が正当の師と言えますが、しかしながら学問や作法を授けられる師もまた師であるのです。

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# by hechimayakushi | 2016-04-05 20:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 03月 05日

私説法然伝14

『私説法然伝』(14)比叡山延暦寺にて②

  勢至丸の出家は何時のことか?『法然上人行状絵図(ほうねんしょうにんぎょうじょうえず)』第四段には「久安三年(一一四七年)十一月八日」のことであったとあります。勢至丸の年齢は十五歳。今の世ではまだ中高生の年齢で、まだまだ子供として扱われる年頃でしょうが、当時では大人の仲間入りの年頃となります。
 以前にも法然上人の出家・得度の年齢は各伝記共通して十五歳であると書きました。しかし相違点があるのは出家の「原因」となる部分です。この『私説法然伝』で以前に書いたのは「法然上人の父時国(ときくに)が定明(さだあきら)という敵に襲撃され、その時の傷が元で時国が絶命することになり、その時の遺言により出家することを決意する」というものでした。これは多くの伝記でそう書かれているものでありますが、実は古い伝記にはその記述がないものがあります。「醍醐本(だいごぼん)」と呼ばれる法然上人の弟子の勢観坊源智(せいかんぼうげんち)上人の書かれた伝記です。これによりますと父の時国襲撃は無く、叔父の観覚の弟子となっていた法然上人は比叡山延暦寺に登り十五歳の時に出家し、その後父の時国が殺害された、とあるのです。また、西山派の学僧である行観(ぎょうかん)上人は『選択本願念佛集秘鈔(せんちゃくほんがんねんぶつしゅうひしょう)』にて法然上人は十歳で観覚の弟子となり、十四歳で比叡山延暦寺の登り十五歳で出家、と記述しています。法然上人の伝記は多岐にわたり、どの説が正しいのかどうかは断言しかねる部分があります。また、その「差異」が法然上人にどのような影響をもたらしたのかについても断言することは不可能だと言えます。ほぼ確定事項として言えるのが、法然上人は十五歳で出家された、ということです。 では、その出家は一体どのようなものであったのでしょうか?
『法然上人行状絵図』によれば勢至丸の出家は久安三年十一月八日のことであったという。剃髪し、戒壇院(かいだんいん)にて大乗菩薩戒を授けられた、とだけある。その時は皇円阿闍梨の弟子であるとされている。そうであるならば戒師(かいし)は皇円阿闍梨であろうか?『法然上人行状絵図』にはその点の記述は無い。出家後すぐに皇円阿闍梨に隠遁することを願い出たとある。皇円阿闍梨はそれを許さず、まずは天台三台部をはじめとする天台教学を学んでからにせよと諌めたと伝えられる。勢至丸は皇円阿闍梨に言われた通り三年かけて天台教学を学んだ。しかし隠遁の志は消えず、名利を追うことを嫌い、久安六年(一一五〇年)九月十二日、十八歳となった勢至丸は西塔黒谷(さいとうくろたに)の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の庵室を訪ねて行くのである。】
 ここで慈眼房叡空という僧侶が登場します。勢至丸こと法然上人はついに出家されるのですが、それは思っていた通りの僧侶としての生活ではなかったことが伺い知ることができます。

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# by hechimayakushi | 2016-03-05 23:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 07日

私説法然伝13

『私説法然伝』(13)比叡山延暦寺にて①

  先月号では勢至丸(せいしまる)こと法然上人がいよいよ比叡山延暦寺へ登る=出家されるために京の都へと入られました。その時の様子が『法然上人行状絵図』に記されています。
【京の都に入った勢至丸は、叔父の観覚(かんがく)より預かった書状を従者を通して比叡山延暦寺の西塔北谷(さいとうきただに)の持宝房源光(じほうぼうげんこう)の元へと届ける。その書状には大聖文殊菩薩像(だいしょうもんじゅぼさつぞう)を一体進上するとあった。源光に大聖文殊菩薩像について問われた使者はただ勢至丸のみが都に来ていると告げると源光は大聖文殊菩薩像とは勢至丸のことだと察知したという。すぐに迎えをやり勢至丸を比叡山延暦寺へと登らせたという。それは二月十五日のことであった。そして試しに『四教義(しきょうぎ)』(天台宗の教義大綱書・入門書)を読ませてみると勢至丸は疑問に思った箇所を源光に質問した。その箇所は昔から天台宗にて議論されている箇所であった。勢至丸の非凡な才能を認めた源光は二ヶ月後に功徳院の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の元へ勢至丸を送った。勢至丸の非凡な才覚は源光の手に余ると考えたとある。皇円阿闍梨は関白藤原道兼(ふじわらみちかね)の玄孫にあたり、豊前守藤原重兼(ふじはらしげかね)の子として肥後の国玉名荘(現在の熊本県玉名市)に生まれ、幼くして比叡山延暦寺に登り皇覚の下で出家得度し椙生流(すぎうりゅう・天台宗の顕教を学ぶ学派)を学び、比叡山延暦寺の功徳院に住し、その学識から人々の尊敬を集めていた学僧である。
 勢至丸は皇円の下で天台宗の教学について学ぶこととなったのである。勢至丸が皇円の下へ来る時に、満月が自室へ入る夢を見た、聡明な勢至丸と出会う前兆であったのだろう、と語ったという。】
 ここで以前にも登場した持宝房源光と、皇円阿闍梨という二人の師が登場します。 持宝房源光については以前にも書いた通りあまり詳しくは資料も残ってはいませんが、叔父観覚の比叡山延暦寺での同窓の友とも伝えれています。皇円阿闍梨は当時から高名な学僧で、関白藤原道兼の玄孫という血筋です。兄は肥後守藤原資隆で、そこから通称肥後の阿闍梨と呼ばれていました。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の著者として有名で、勢至丸が皇円の下へ来た時は皇円晩年のことでした。
 『法然上人行状絵図』によりますと源光は勢至丸の非凡さ故に、皇円の下へと勢至丸を送るのですが、その間わずか二ヶ月となり、それほど優秀な弟子ならば自分の下で学ばせたいと思うのが通常だとは思われますが、勢至丸が皇円の下で天台宗について学んだことは間違いないと思われます。 そしていよいよ勢至丸の出家得度の日がやってくるのです。 
 


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# by hechimayakushi | 2016-02-07 21:09 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)