2021年 12月 31日
『私説法然伝』(83)法然がくる⑩ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【建久(けんきゅう)三年(一一九二年)後白河帝崩御される。白河帝を祖父に持ち、鳥羽帝を父に持ち、三代に渡って絶大な権勢を誇ったまさに「治天の君」であった。院政というものの実質的に最後の時代でもあり、平家と源氏という武家の時代のはじまりでもあり、そんな時代の変化の中で「日の本一の大天狗」とも言われるほどの老獪さと絶大な政治力を誇った稀代の存在であった。 兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』にはかつて信西入道が後白河帝を評した言葉の記録がある。後白河帝は中国や日本において比類なき「暗主(あんしゅ)」=暗君だが、一度やると決めた事は必ずやる実行力と一度聞いた事は忘れない記憶力は実に凄いとある。かなりの毒舌だが、よほど強烈な個性の持ち主であったとわかる。また兼実は鳥羽帝と後白河帝を比べて鳥羽帝の失敗は美福門院得子(びふくもんいんなりこ)にすべてを与えた(八条院領)ことであり、それに比べて後白河帝はそういう失敗をしない人だと評している。また佛門への帰依の姿を褒め称え、人柄は慈愛に満ち溢れていると絶賛している。しかし延喜(えんぎ)の時代の良き政治が失われたのは残念だと書いている。つまり政治的には酷評なのである。 頼朝には「日の本一の大天狗」という歴史に残る評価を残されているが、頼朝と後白河帝との会談の結果、一応の平和が今後三十年続くことになる。頼朝は対武家において妥協は一切無かったが、「中央」=後白河帝に対しては文句を言いながらもその秩序そのものへの挑戦はしなかった。頼朝にとっての「鎌倉幕府」とは東国における「王権」としても良かったが、後白河帝との会談の結果生まれた建久の平和体制とは、歴然とした日本型「秩序」であった。だがそれはこの時点で頼朝が本来的に目指したものではなく、やはり頼朝は頼朝である。まだまだ腹の中に隠し玉を持っていた。そしてその隠し球が後々の兼実の政治生命に響くことになる。 建久三年三月の後白河帝の崩御以降の政治は極めて円滑に進む事になる。兼実主導の朝廷の政治は反対派を生み出しても後白河帝という圧倒的な存在を失う事でしばらくは平穏となる。そして兼実の弟である慈円が天台座主となり、政教の安定化が進む。これは実に京の都にとっては重要な事であった。政治と宗教が密接に関係する時代において政治の安定と宗教の安定は社会の平穏の為に不可欠であった。その象徴となる出来事が戦乱で焼け落ちた興福寺と東大寺の再建である。南都は藤原家の本拠地の一つでもあり、宗教の本拠地でもある。そして法然上人もまた、それらと無関係ではなかった】 後白河帝の時代が終わり、いよいよ「鎌倉時代」となります。「鎌倉幕府」は一一九二年に始まったわけではない、と今の教科書にあるそうですが、事実を見れば後白河帝崩御こそがそのはじまりとも言えるのではないでしょうか? 以下次号に続く(征阿)
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by hechimayakushi
| 2021-12-31 23:52
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2021年 12月 31日
『私説法然伝』(82)法然がくる⑨ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【文治(ぶんじ)三年(一一八七年)九条兼実は精力的に政務に励んでいた。頼朝の意向を汲んだ親鎌倉派公卿らと共に朝廷を動かし、後白河帝によって廃止されていてた記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)(記録所)を復活させ自らの管轄下において朝廷業務をそこに集中させて実権を握った。その甲斐もあって貴族社会は安定を取り戻していった。翌年には氏の長者として一族を引き連れて春日大社へ参詣している。藤原摂関家にとって再び良い方向へ向かっていると、この時には確信が持てたであろう。しかし将来の希望であった嫡子の内大臣良通(よしみち)卿が急に逝去する。亡くなる前日にも会って話をしていたにも関わらずの急逝である。兼実の落胆ぶりは想像に難くないものがあるが、翌年には娘の九条任子(たえこ・にんし)を入内させて後鳥羽帝の中宮(正妻)に擁立に成功することでその悲しみを振り切ることになった。 建久(けんきゅう)元年(一一九〇年)ついに鎌倉の頼朝が上洛する。すでに奥州藤原氏を族滅させての上洛であり、後顧の憂いを全て取り除いての上洛であった。兼実と頼朝の会談はこの一度きりであったが、この後は両名の協力体制によって、東国と西国の一種の調和体制となる。ただ「治天の君」は後白河帝である。チェックメイトは確定していても、それでも頼朝が如何ともし難い事が唯一だけある。それは「治天の君」というもの、つまり後白河帝とは帝、そもそもが「天皇」という「王」の中の「王」、古(いにしえ)の言葉で「大王(おおきみ)」(大君)であった。海内統一(かいだいとういつ)という偉業を成し遂げたと頼朝は誇っても、古来より続く伝統や秩序を兼実が重視しても、唯一にして絶対的な最終的な秩序は「天皇」である。頼朝や兼実がどれほどの力をもってしても、天皇の勅命(大御言(おおみこと))が最も重く広いものであった事は覆せない。それを覆すには頼朝は「中央」の権威を使うべきではなかったし、兼実は「朝廷」の中で生きる者として、その重要性は誰よりも知っていたはずである。後白河帝は頼朝に権大納言・右近衛大将の地位を授けた。つまり以前にも書いた通り「武家の棟梁」としてのありとあらゆる権限は認めたが、それ以上の存在ではないという峻烈なメッセージがある。頼朝は任命から十日後にそれを辞職し鎌倉へ帰還する。ただし任官された「事実」を使って鎌倉において建久(けんきゅう)二年(一一九一年)政所(まんどころ)という統治機関を使い御家人たちに所領の安堵と恩給を与えている。つまりこの時点では鎌倉は法的秩序としてまだ「中央」の支配体制下である事でもあった。 兼実もまた後白河帝との関係は非常に緊張感のある状態が続いていた。朝廷はほぼ兼実らによって動かされ業務を行っていたが、兼実の求める「秩序」に反発する反兼実勢力と後白河帝の力は決して消える事がなかったのである。だが時代はまた新たな局面を迎えるのである。】
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by hechimayakushi
| 2021-12-31 23:50
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2021年 12月 31日
『私説法然伝』(81) 法然がくる⑧ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【文治元年からの政治とは、まず頼朝と義経という兄弟の争い、そしてその背景にある関東と「中央」の戦いであった。前にも書いたように頼朝にとって最終的に挑む相手は後白河帝であった。では後白河帝とは何であるのか?そして九条兼実という人が政治トップとなった意味とは何であろうか? まず後白河法皇とは「治天の君」であった。それは白河帝や鳥羽帝における治天の君の姿とはだいぶ変化していた。後白河帝はまさしく「王家」そのものであったが「王権」(=統治を実際行う権限と能力)というものに関しては白河帝や鳥羽帝とはかなり違うものであった。それはまず平家が王権を実質掌握していた時期の治天の君であったためである。決してかつての藤原氏による王権の姿とは違うものの、圧倒的な軍事力を背景として政治的な実権を確実に握っていたのは平家であり、それこそ新時代の王権の姿であった。しかし後白河帝も王権は持っていた。なので政治の舞台が混乱するわけであり、最終的に清盛の軍事クーデターを招いたのである。そこで後白河帝は王権を失うわけだが、その後の平家没落により再び表舞台へと舞い戻る。だが、そこで新たな問題となるのが鎌倉であった。つまり頼朝をどうするか、である。なので義経に官位を与え新たな平家とすることでパワーバランスを取りつつ自らの王権の維持のために使おうとしたわけである。だがそれは頼朝が義経を排除した事により頓挫する。同時に奥州藤原氏が族滅された事で日本において鎌倉源氏一門が最大最強の武士となり、ここで後白河帝はチェックメイトとなるわけだが、日本とはそこまで単純なシステムと歴史を持った国ではなかった。朝廷というものが唯一にして絶対的な法による支配そのものであったのだ。頼朝はかつての平将門公の如き完全独立帝国を築くというルートの選択はしなかった。あくまで朝廷=法の支配による秩序の中で王権を奪取する選択をしたのである。なので上京し後白河帝と対峙する必要があったのだ。そのために朝廷を掌握する必要があり、それが出来るの九条兼実そのひとであり、後白河帝に対する「駒」として最強であったのは事実である。この文治元年以降は完全に政治的パワーゲームの様相となる。それが九条兼実卿にとって人生で最も充実した時間であると同時に、消耗の日々ともなるのである。】
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by hechimayakushi
| 2021-12-31 23:49
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2021年 10月 13日
『私説法然伝』(80)法然がくる⑦ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【文治元年(一一八五年)、後白河帝は義経を取り込み使うために、義経に求められるまま頼朝追討の宣下を下された。しかし義経は没落した。即ち頼朝による後白河帝へのチェックメイトである。ここで頼朝にとって重要となるのは、王手とは言っても打ち込む「駒」がないのである。つまり京都に地盤の無い頼朝にとって、信頼できる「駒」が京都にないのである。京都、つまりは後白河帝並びに朝廷を抑えなければいけない。それが出来る人材は源氏にいるはずがない。そこで頼朝の出した答えが、突然の兼実の内覧指名である。つまり朝廷政治トップに兼実を置く事にしたのである。これは兼実にとっても青天の霹靂であったようで、日記にもそう書かれている。 いずれにせよ九条兼実という人物はここで一気に政界トップへと上り、波乱の人生となるのである。そしてそれが法然上人と出会う事へとつながっていくのである。】 ここまで一気に九条兼実という人の半生を追ってきました。九条兼実を理解するには色々と歴史的経緯を理解しないといけないのです。重要な点は、彼は基本的に極めて非常に政治的であるという事です。もっとも当時に摂関家に生まれた時点でそれは決められたようなものです。本来は嫡男の正統というわけではないのですが、彼の才覚と状況判断によって政治的にトップへと登っていくわけです。それはたまたまという点もあるのでしょうが、兼実自身もまた政治的に目指すものがありました。ですので彼はただ自分のやりたいようにやるのではなく、敵対する相手とも手を結ぶ事を厭わず、それは父の忠通卿と同じく極めて政治的に上手くやる事を心がけていたのでしょう。ただし、ここで言う「政治的」というものは今日的な政治ではなく、あくまで「朝廷」における政(まつりごと)です。立法や行政的な面だけでなく、朝廷行事や祭祀なども重要となります。その点では九条兼実という人は極めて有能であったと言えます。それは彼の残した日記である『玉葉』からも伺いしれますし、兼実の弟で天台座主となる大僧正慈円の記述からもそう言えます。ただし、摂関家氏の長者、つまり「藤原摂関家」という日本における名家の中の名家の中のトップであり、さらに政治のトップともなった彼の内面にあった強烈すぎる自負は、後々の彼の人生によからぬ影響を与える事になります。そこで法然上人との出会いがあるわけですが、その重要性または意味を知るには、日本国とその歴史における最重要事項を知っておく必要があるのです。 それは次回より詳細を書かせていただくつもりですが、以前にも少し書きました「王家」と「王権」というものが重要となってくるのです。西欧や中華とも違う日本という国家における特異点のようなものでもあります。
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by hechimayakushi
| 2021-10-13 16:08
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2021年 09月 15日
『私説法然伝』(79)法然がくる⑥ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【平家との関わりで兼実の息子である良通卿を厚遇してもらうなど、九条家にとって良い結果となったのだが、兼実にとっては面白くない事でもあったようである。そして最初は甥のために有職故実・政治というものを手ほどきをしていたようだが、治承(じしょう)四年以仁王(もちひとおう)の挙兵以後はまた朝廷と距離を取ることになる。どの勢力にも与しないという意思表示である。後白河帝とも距離を取り、甥の関白基通とも距離を取り、諸勢力と距離を取るのだが、表面上は敵対するわけでもなく、様子を見る事としたのであろう。治承(じしょう)五年の清盛の死によって流れが大きく変わっても傍観者で有り続けた。これは後に大きく影響する。当時の兼実は朝廷よりも八条院暲子(はちじょういんあきこ)内親王へ接近していたようである。これは極めて政治的な意図がある。 鳥羽帝と美福門院得子(びふくもんいんなりこ)との間に生まれた「皇女」である八条院暲子内親王は広大な荘園を受け継いだ。当時有数の荘園領主となった八条院暲子内親王の持つ力は凄まじく、治承四年に猶子としていた後白河帝の息子の以仁王が反平家の挙兵を行うと、その援助をしていたのは八条院暲子内親王ではないかと言われた程である。また後白河帝の院政を支え続けたのも八条院暲子内親王だとされている。八条院暲子内親王自身に特別な政治能力があったわけではないと言うが、皇后でないのに女院号を宣下される存在であり、鳥羽帝の嫡流として最重要人物として扱われていたのは確実である。 九条兼実は八条院暲子内親王に近づき、彼女に仕えていた三位局(さんいのつぼね)との間に意図せず実子をもうける事になった。これは本人もまったく意図していたわけでもない事であり単なる「政治的交渉相手」であったのが三位局との事で、つまり愛情の結果というわけでもないらしいが、何にせよ九条兼実の四男となる後の九条良輔(よしすけ)は生まれて後に八条院暲子内親王に引き取られる事になった。つまり九条兼実は政治的に八条院暲子内親王と深く関わりを持つ事になった。そして八条院暲子内親王の猶子以仁王の挙兵により、各地の八条院暲子内親王領では武士達の反平家の武装蜂起が起きた。つまり九条兼実はどちらかと言うと反平家側に近づいていたのである。そしてそれが兼実にとっては思わぬ結果をもたらすのである。後に平家を打倒した源頼朝にとっての「信頼すべき政治パートナー」として選ばれる事につながっていくからである。】
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by hechimayakushi
| 2021-09-15 01:11
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