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へちま薬師日誌

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2019年 07月 11日

私説法然伝54

『私説法然伝』(54)陰謀術数③

 先月号では「鹿ヶ谷の陰謀」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【「鹿ヶ谷の陰謀」はものの見事に清盛によって封じられた。そして平家政権は完全に政治的主導権を握ることができた。しかしそれが平家政権の崩壊の序章であった。表面上は後白河帝も清盛も友好ムードを保っていたが、それはあくまで表面上に過ぎなかった。治承(じしょう)二年(一一七八年)清盛の娘であり中宮であった建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)と高倉帝との間に皇子が誕生する。これにより清盛は天皇の外祖父(がいそふ)として完全なる権力者となった。皇子は皇太子として周りも平家側の公卿らで固められた。後白河帝をはじめとする反平家側が何もしなければ平家政権は完全に安泰という状況である。しかし翌年の治承三年(一一七九年)平重盛卿が病を理由に内大臣の職を辞し、同年亡くなってしまう。反平家側を抑える事が出来うる人物がいなくなったのだ。「鹿ヶ谷の陰謀」の発覚後、怒り狂い武装し兵を引き連れて今にも出陣し後白河帝をも討たんとしている清盛に対して「後白河帝の恩に報いようとすれば父の恩を忘れた不孝者となり、父の恩に報いようとすれば不忠の逆臣となる。我が進退ここに谷(きわ)まれり」と涙ながらに父清盛を諌(いさ)めたという逸話があるほど、後白河帝と清盛の間で苦悩し調整に努めた人物の死であり、その死の影響は平家全体の今後を左右するものであった。
 同年に清盛の娘で故関白近衛基実(このえもとざね)卿の妻であり莫大な摂関家領を相続していた白河殿・平盛子(もりこ)も亡くなる。その遺領を後白河帝と関白松殿基房(まつどのもとふさ)卿(基実の弟)が手を組み没収してしまった。さらに重盛の遺領も後白河帝は没収してしまったのである。これは明確な反平家活動であった。後白河帝は反平家であることを隠すことなく行動し始めたのである。この後白河帝の反平家の活動開始は実に巧妙なタイミングであった。
清盛の推し進めた「宋銭」の大量輸入と流通は物価の暴騰を引き起こしていた。同時期に起こった疫病の流行は「宋銭の病」という噂が広まり、世間的な反平家の機運が高まっていた時期であったのだ。清盛は物価の安定の為に估価法(こかほう)という物価の公定価格を決める法律を定め、世情の安定も図られたが、後白河帝は宋銭そのものの禁止も目論んでいたという。後白河帝の一連の動きは清盛を動かすには充分すぎる内容であった。】

 平重盛という人は『平家物語』では「人生が傾く時は悪事を思いつくものだ」と平家の滅亡を予言するかのような言葉を清盛たちに投げかけています。また頼山陽(らいさんよう)という江戸時代の歴史家が著した『日本外史』には重盛の言葉として「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という有名な言葉があります。重盛は長年仕えた後白河法皇と実の父である清盛、この二人を抑えの役目であったと言える存在でした。重盛のおかげで「平和」が保たれていたのです。


# by hechimayakushi | 2019-07-11 22:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 07月 11日

私説法然伝53

『私説法然伝』(53)陰謀術数②

 先月号では平家政権のパワーバランスの崩壊と院の近臣と比叡山延暦寺との争いについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【院の近臣と比叡山延暦寺との争いに関して後白河帝の出した答えは「妥協」であった。当初は騒動の張本人の師高・師経兄弟の弟の師経の処分だけで済まそうとしたが、それが比叡山延暦寺の反感を買い、警備の任に当っていた平重盛の配下と延暦寺の僧徒・僧兵との間で争いが起こり、死者を出す騒ぎになった。後白河帝が延暦寺の要求を飲まなければ騒動が収まらなくなってしまったのである。結果的に後白河帝は延暦寺の要求を飲まざる負えない状況になり「妥協」して延暦寺の要求を一度は飲んだ。その後に安元の大火が発生したのだが、その混乱期に突如として後白河帝は検非違使(けびいし)に天台座主明雲の捕縛を命じる。拘束され移送されていた明雲だが、延暦寺の衆徒によって奪還されてしまう。これに激昂した後白河帝は重盛・宗盛兄弟に延暦寺攻撃を命じるが、重盛・宗盛兄弟は事態の重大さに判断ができなくなり、福原にいる清盛は急遽京へ戻ることになった。後白河帝に攻撃の中止を説得するも失敗。各地の兵力を集め延暦寺攻撃の準備がなされていた安元三年(一一七七年)六月一日に清盛に平家打倒の陰謀があることが密告される。この陰謀は京都鹿ヶ谷(ししがたに)山荘(『平家物語』には俊寛僧都(しゅんかんそうず)の山荘とあり慈円の『愚管抄』には信西入道の子の静賢(じょうけん)の山荘とある)にて謀議がなされた事から「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる。後白河帝の院の近臣で重盛の妻の兄である藤原成親や西光らによって平家打倒の陰謀が計画された、と伝えれるが真偽は諸説ある。清盛は密告を聞いた後に西光を呼び出し拷問にかけ自白させ斬首し、成親は重盛の願いもあったのか流刑、その他の謀議に加わった面々も捕縛された。これにより院の近臣は全滅と言ってもよい状況となる。それは後白河帝の実権が弱まり結果的に平家政権が政治の主導権を完全に掌握することになった。しかし後白河帝と平家一門との対立は決定的なものとなる。さらに清盛の後継者であり平家一門の棟梁でありながらも院の近臣でもあった重盛の立場は、身内であった成親の裏切りによって完全に崩壊してしまった。平家政権と後白河院政とのパワーバランスを最後の薄皮一枚でつなぎとめる事ができた唯一の人物が事実上の失脚状態になることは今後の政局と平家一門の行く末をも左右する事でもあった。】

 「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる一連の事件ですが、『平家物語』や『愚管抄』に仔細が記されています。『愚管抄』の著者であり同時代を生き抜いた慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)は明雲の下で受戒しており、天台座主の座も受け継いだ人物です。摂関家の出で一流の教養人で現実主義的な思考の慈円は「一定の説は知らねども」と陰謀の真偽については確認したわけではないという立場を記しているのが印象的です。


# by hechimayakushi | 2019-07-11 22:31 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 06月 06日

私説法然伝52

『私説法然伝』(52)陰謀術数①

 先月号では吉水の地へ法然上人が移られたことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が吉水の地で念佛の日々を送られ始めた頃、世情は再び不安定な状況となっていた。この時代の京の都はたびたび大火に見舞われていた。安元(あんげん)三年(一一七七年)の四月に起こった安元の大火が鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』にも詳細に記されている。朱雀門や内裏(だいり)の中心である太極殿(だいごくでん)や大学寮など公的な施設が焼け、公卿(くぎょう)の館も焼けたとある。鴨長明によれば京の都の三分の一が灰燼(かいじん)に帰したという。延暦寺の僧徒・僧兵は強訴(ごうそ)のために都へ乱入するなど、世情の不安定さは一目瞭然であった。
 世情の不安定さに比例するように政情も不安定となっていく。平家政権の力が絶大になるにつれ、それに対する反発の輪が広がっていったのである。当時の平家政権の力の絶大さの中心となっていたのが、高倉帝の中宮となっていた平清盛の娘建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の存在である。高倉帝は後白河帝と清盛の義理の妹である建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)との子であり、その高倉帝の擁立が後白河院政の要(かなめ)である。そしてその高倉帝に娘を入内させる事が平家政権の要となっていたのである。 大火の前年の安元二年(一一七六年)後白河帝五十歳の祝いの行事の後に後白河帝は滋子と有馬温泉へと行幸する。それほど仲睦まじい二人であったが、その行幸から都へと戻ると滋子は病に倒れ三十五歳の若さで亡くなってしまう。これにより後白河帝と平清盛とを繋ぎ結んでいた要を失う事になった。利害関係という視点で言えば後白河帝と平家政権は本来的に対立関係である。それを結びつけていたのが、高倉帝の擁立であり建春門院滋子という調整役の存在であった。その一端が崩れると、パワーバランスの崩壊を招くことになった。延暦寺の僧徒・僧兵の乱入も意味なく行われたわけではない。その背景には後白河帝の近臣と延暦寺との対立がある。西光(さいこう)は出家した後の名で、元は藤原師光(ふじわらのもろみつ)と言い信西入道のの乳母の子であり信西入道の配下で名を上げた人物である。信西入道亡き後も後白河帝の近臣として仕えていた。その子である藤原師高(ふじわらのもろたか)・師経(もろつね)兄弟が延暦寺の末寺を焼き討ちにした事が発端となり、延暦寺と院の近臣との対立へと発展したのである。この対立構造に平家一門が巻き込まれる、または介入していく事で政情の不安定さが加速していくのである。】
 
『方丈記』に大火の詳細が記されています。当時の京都は相次ぐ大火や飢饉などで相当不安定な時代であったことでしょう。そんな時代と呼応するかのように政治の世界もまた不安定となっていくのです。


# by hechimayakushi | 2019-06-06 01:14 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 13日

私説法然伝51

『私説法然伝』(51)回心回天⑥

 先月号では法然上人が西山の粟生の地にて高橋茂右衛門に教えを伝えられた事、そして遊蓮房円照との出会いと別れについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)と今生(こんじょう)において別れた後の法然上人は京都東山の吉水の地へと庵(いおり)を移されたという。吉水の地は現在の知恩院がある一帯である。現在の知恩院は青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の南、円山公園の北に位置する。吉水の庵は現在の知恩院御影堂(みえいどう)のあたりとも知恩院の南にある安養寺にあったと伝えられる。当時の様子をうかがい知る手がかりは今現在は何も無いが、八坂神社(祇園神社)や青蓮院門跡という延暦寺末(延暦寺の系統寺院や支配権の及ぶ寺社)の支配地域であったと考えるのは自然であり「不入(ふにゅう)の権」(外部権力の立ち入り拒否権)を持つ地域であった。鴨川の東は当時は市街地ではなく、平家など有力貴族の土地や有力寺社(権門勢家(けんもんせいか))の支配地域であり、鳥辺野など野辺送りの地もあった。当時の京都の中心部からは離れた土地であり、公権力の力がそう簡単に及ばない土地であったことは間違いないであろう。法然上人は長く吉水の地で念佛の日々を送られることになる。
 この時期の法然上人は、積極的に人々に本願念佛を勧めるような活動はされていなかったと伝えられる。一日六万遍の称名念佛を日課とされていたようである。遊蓮房円照と出会ったのが承安(じょうあん)五年(一一七五年)で、遊蓮房円照の往生が治承(じしょう)元年(一一七七年)の事であるので、法然上人が吉水の地に移られたの治承元年あたりのことであろう。法然上人は回心によって人生の一大転機を迎え、人生の新たな出発点を迎えられた。高橋茂右衛門と遊蓮房円照という両名との出会いは新たな出発点を迎えた法然上人に何をもたらしたのか?遊蓮房円照は念佛の「聖(ひじり)」という生き方を指し示す存在であっただろう。対して高橋茂右衛門という存在は、出家者ではない存在が佛教的にどう生きていくべきなのかを法然上人が考えるべき方向性となったのではないだろうか。本願念佛というものは、出家者であろうがなかろうが関係なく佛という存在によって救われることである。それが一人の人間という存在にとってどういう意味があるのかを法然上人に指し示す存在となったのが高橋茂右衛門という人ではないだろうか。】

 法然上人は比叡山を下りられてからの数年間の出来事が高橋茂右衛門と遊蓮房円照という二人の存在との邂逅です。それが法然上人の今後の生き方へ影響を与えたのだと考える事ができると思います。


# by hechimayakushi | 2019-04-13 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 13日

私説法然伝50

『私説法然伝』(50)回心回天⑤

 先月号では法然上人が比叡山延暦寺を下りられる事について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【比叡山を下りられた法然上人が向かわれたのが、西山(にしやま)粟生(あお)の地であった事は間違いないであろう。西山粟生とは西山(せいざん)浄土宗総本山光明寺のある地である。現在では長岡京市と呼ばれる地で、かつて桓武帝により都が置かれた地が長岡京であり、その地の西の峰に粟生の地がある。その地に住む高橋茂右衛門はかつて南都へ向かう法然上人に一夜の宿を提供した人物である。法然上人はその時に交わした約束を忘れていなかった。長い月日が経っていたが、高橋茂右衛門と再会した法然上人は本願念佛の教えを伝えられたのだろう。法然上人が初めて本願念佛の教えを人に伝えた瞬間であった。以来西山粟生の地は日本における本願念佛の根元の地となり、後に正親町天皇より綸旨(りんじ)を賜り建立された「浄土門根元地」の石碑が現在の総本山光明寺に今も残っている。法然上人は高橋茂右衛門と再会した後も西山粟生の地のすぐ近くで数年間を過ごされた。
 法然上人は後に浄土の法門と遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)に出会えた事が人生で最も思い出深い出来事だと述べられている。その遊蓮房円照が住んでいた庵が西山粟生の地からさらに山の中へ入った広谷の地にあったという。遊蓮房円照は念佛の聖であった。もとは藤原是憲(ふじわらのこれのり)と言い、あの信西入道の息子である。平治の乱の後に佐渡ヶ島または安房国に流されたが、その際に出家し遊蓮房円照を名乗った。平治元年(一一五九年)二十一歳の出来事であった。時は流れ承安五年(一一七五年)法然上人と出会うことになったのだが、なぜ法然上人は遊蓮房円照を訪ねたのたのだろうか。遊蓮房円照の妻(藤原顕時の娘)の甥が法然上人の兄弟弟子の信空であった事から、法然上人は遊蓮房円照という念佛の実践者の存在を聞いていたのかもしれない。遊蓮房円照はひたすら称名の念佛に励み「三昧発得」をしたと伝えられる。法然上人は「回心」という確信を得られていたが、それは法然上人一人の内的な体験または仏教的な境地や確信であった。自分の到った確信を誰かに会い確かめる必要があったのだろうか。法然上人は遊蓮房円照と数年間過ごす。遊蓮房円照は法然上人と出会って数年で病を得て浄土へ往生することとなった。その時法然上人が臨終の善知識として遊蓮房円照の往生を見届けた。法然上人が生涯忘れる事が出来ない出会いであった。】


# by hechimayakushi | 2019-04-13 00:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)