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へちま薬師日誌

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2019年 04月 13日

私説法然伝51

『私説法然伝』(51)回心回天⑥

 先月号では法然上人が西山の粟生の地にて高橋茂右衛門に教えを伝えられた事、そして遊蓮房円照との出会いと別れについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)と今生(こんじょう)において別れた後の法然上人は京都東山の吉水の地へと庵(いおり)を移されたという。吉水の地は現在の知恩院がある一帯である。現在の知恩院は青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の南、円山公園の北に位置する。吉水の庵は現在の知恩院御影堂(みえいどう)のあたりとも知恩院の南にある安養寺にあったと伝えられる。当時の様子をうかがい知る手がかりは今現在は何も無いが、八坂神社(祇園神社)や青蓮院門跡という延暦寺末(延暦寺の系統寺院や支配権の及ぶ寺社)の支配地域であったと考えるのは自然であり「不入(ふにゅう)の権」(外部権力の立ち入り拒否権)を持つ地域であった。鴨川の東は当時は市街地ではなく、平家など有力貴族の土地や有力寺社(権門勢家(けんもんせいか))の支配地域であり、鳥辺野など野辺送りの地もあった。当時の京都の中心部からは離れた土地であり、公権力の力がそう簡単に及ばない土地であったことは間違いないであろう。法然上人は長く吉水の地で念佛の日々を送られることになる。
 この時期の法然上人は、積極的に人々に本願念佛を勧めるような活動はされていなかったと伝えられる。一日六万遍の称名念佛を日課とされていたようである。遊蓮房円照と出会ったのが承安(じょうあん)五年(一一七五年)で、遊蓮房円照の往生が治承(じしょう)元年(一一七七年)の事であるので、法然上人が吉水の地に移られたの治承元年あたりのことであろう。法然上人は回心によって人生の一大転機を迎え、人生の新たな出発点を迎えられた。高橋茂右衛門と遊蓮房円照という両名との出会いは新たな出発点を迎えた法然上人に何をもたらしたのか?遊蓮房円照は念佛の「聖(ひじり)」という生き方を指し示す存在であっただろう。対して高橋茂右衛門という存在は、出家者ではない存在が佛教的にどう生きていくべきなのかを法然上人が考えるべき方向性となったのではないだろうか。本願念佛というものは、出家者であろうがなかろうが関係なく佛という存在によって救われることである。それが一人の人間という存在にとってどういう意味があるのかを法然上人に指し示す存在となったのが高橋茂右衛門という人ではないだろうか。】

 法然上人は比叡山を下りられてからの数年間の出来事が高橋茂右衛門と遊蓮房円照という二人の存在との邂逅です。それが法然上人の今後の生き方へ影響を与えたのだと考える事ができると思います。


# by hechimayakushi | 2019-04-13 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 13日

私説法然伝50

『私説法然伝』(50)回心回天⑤

 先月号では法然上人が比叡山延暦寺を下りられる事について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【比叡山を下りられた法然上人が向かわれたのが、西山(にしやま)粟生(あお)の地であった事は間違いないであろう。西山粟生とは西山(せいざん)浄土宗総本山光明寺のある地である。現在では長岡京市と呼ばれる地で、かつて桓武帝により都が置かれた地が長岡京であり、その地の西の峰に粟生の地がある。その地に住む高橋茂右衛門はかつて南都へ向かう法然上人に一夜の宿を提供した人物である。法然上人はその時に交わした約束を忘れていなかった。長い月日が経っていたが、高橋茂右衛門と再会した法然上人は本願念佛の教えを伝えられたのだろう。法然上人が初めて本願念佛の教えを人に伝えた瞬間であった。以来西山粟生の地は日本における本願念佛の根元の地となり、後に正親町天皇より綸旨(りんじ)を賜り建立された「浄土門根元地」の石碑が現在の総本山光明寺に今も残っている。法然上人は高橋茂右衛門と再会した後も西山粟生の地のすぐ近くで数年間を過ごされた。
 法然上人は後に浄土の法門と遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)に出会えた事が人生で最も思い出深い出来事だと述べられている。その遊蓮房円照が住んでいた庵が西山粟生の地からさらに山の中へ入った広谷の地にあったという。遊蓮房円照は念佛の聖であった。もとは藤原是憲(ふじわらのこれのり)と言い、あの信西入道の息子である。平治の乱の後に佐渡ヶ島または安房国に流されたが、その際に出家し遊蓮房円照を名乗った。平治元年(一一五九年)二十一歳の出来事であった。時は流れ承安五年(一一七五年)法然上人と出会うことになったのだが、なぜ法然上人は遊蓮房円照を訪ねたのたのだろうか。遊蓮房円照の妻(藤原顕時の娘)の甥が法然上人の兄弟弟子の信空であった事から、法然上人は遊蓮房円照という念佛の実践者の存在を聞いていたのかもしれない。遊蓮房円照はひたすら称名の念佛に励み「三昧発得」をしたと伝えられる。法然上人は「回心」という確信を得られていたが、それは法然上人一人の内的な体験または仏教的な境地や確信であった。自分の到った確信を誰かに会い確かめる必要があったのだろうか。法然上人は遊蓮房円照と数年間過ごす。遊蓮房円照は法然上人と出会って数年で病を得て浄土へ往生することとなった。その時法然上人が臨終の善知識として遊蓮房円照の往生を見届けた。法然上人が生涯忘れる事が出来ない出会いであった。】


# by hechimayakushi | 2019-04-13 00:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 02月 14日

私説法然伝49

『私説法然伝』(49)回心回天④

 先月号では法然上人の人生において一番重要な出来事の一つである「回心」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人の人生は「回心」によって大きく変わった。それは日本の歴史を変えていくことでもあった。だが、それはまだ先の話である。
 法然上人は約三十年という長い月日を過ごした比叡山を降りることにした。この一点からわかるのが、法然上人は回心によって大きく変わられた事は「事実」だということである。ただし、その時の法然上人の思いや考えがどのようなものであったのか、定かでない。本願念佛の教えを広く世に広めるためであったのか?それとも何か他の目的があったのであろうか?少なくとも何かの理由と意図があったには違いないのである。ただ念佛の日々を送るだけなら比叡山を降りる事はないはずである。山を降りるということは、比叡山延暦寺の僧侶として保証されている人生を捨てることになる。そうまでしてなぜ山を降りたのか?
 まず思想的に師僧である叡空の下には居づらくなったのかもしれない。黒谷という比叡山の中でも隠遁の地であっても、法然上人はもう居場所が無くなってしまったのではないか?阿弥陀佛の本願によって救われる「他力」という思想の法然上人が、方法論の違いがあれども、いずれも「自力」の思想の世界であり、相反する思想の法然上人が居ることができなくなった、そう考えるのは不自然ではないだろう。ただし、それだけで山を降りるのも不自然でもある。
 法然上人の回心は到達点でもあったが、出発点ともなった、と考えると、山を降りなければならないというよりも、山を降りたくなったのかもしれない。「他力」というのは何もしなくても救われる事でもあるが、それを自覚した時にはじめて開眼され始まる境地と状況がある。救われている真実への報恩感謝の念佛というものである。法然上人はその報恩感謝の念佛の第一歩として、山を降りる事にされたのかもしれない。籠山すること約三十年、回心と同じく承安五年法然上人は新たな一歩を踏み出される事になった。】

 法然上人がついに比叡山延暦寺を下りられる事になりました。諸説ありますが、決して後ろ向きな理由だけはなく、前向きな理由があったことでしょう。そして大事な事は山を下りられた法然上人がどこへ向かわれたのか、ということです。


# by hechimayakushi | 2019-02-14 01:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 02月 01日

お知らせ

a0149268_19273334.jpg本山参りの集合場所が変更になりました。
金山駅になります。



# by hechimayakushi | 2019-02-01 19:28 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 15日

私説法然伝48

『私説法然伝』(48)回心回天③

先月号では法然上人の出会われた『観経疏』の著者の善導大師について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人は『観経疏(かんぎょうしょ)』の「散善義(さんぜんぎ)」という巻にある「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)不問時節久近(ふもんじせつくごん) 念念不捨者(ねんねんふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょうしょうじょうしごう) 順彼佛願故(じゅんぴぶつがんこ)」(一心にもっぱら阿弥陀佛の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是れ正定の業と名づく。彼の佛の願に順ずるが故に)の一節を読まれた時に「回心」(心を改める事)されたと伝記にある。法然上人は三度にわたって『観経疏』を読まれ、三度目にして回心されたのである。つまり、三度のうちの二度での読み方と、三度目の読み方に変化があったのである。『観経疏』は『観無量寿経』の注釈書で、四つの巻で成り立っている。第一巻となる「玄義分(げんぎぶん)」において『観無量寿経』という経典の意義・エッセンスが述べられている。「散善義」は第三巻目にあたる。その中の一節・一文に法然上人の人生、または日本の歴史を塗り替えるきっかけとなる内容があった。この一節は「順彼佛願故」以外だけを読むと「常に念佛する人は必ず往生する」という自分の力で往生するのだという意味合いになる。そこに「順彼佛願故」の一文が加わると、「彼の佛の願に順ずる」=「願いが成就して阿弥陀佛となった佛の力によって、念佛する人は必ず往生する」という意味にになる。
 自分自身の力やはたらきで往生する、という「分別」の中で法然上人は『観経疏』を読まれていた。三度目に読まれた時にこの一文に込められた大きな意味に気がつかれた。自分の力やはたらきではない、阿弥陀佛という佛の力・はたらきによって往生する、つまり「他力」という真理に気がつかれたのである。阿弥陀佛とは法蔵菩薩が全ての衆生を救うという願い=本願(第十八願)を成就して佛となった佛。そこに法然上人自身が救われたいという願いも入っている、そしてその願いは成就されている、そう確信されたのだろう。その確信を回心と言う。また言い換えれば「分別」を越えたのである。法然上人四十三歳の年、承安(じょうあん)五年(一一七五年)春の事だったという。】

 法然上人が「回心」された承安五年(一一七五年)は法然上人が浄土宗を開かれた「立教開宗の年」ともされています。法然上人は回心されてからどのような人生を歩まれていかれたのでしょうか?


# by hechimayakushi | 2019-01-15 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)