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へちま薬師日誌

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2019年 09月 09日

9月のお知らせ

9月23日午前7時より正午まで。
平和公園墓参日となっています。
当日は交通規制がありますので、ご注意ください。


# by hechimayakushi | 2019-09-09 00:28 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2019年 08月 05日

お盆中のご案内

お知らせ

お盆期間中はへちま封じ加持祈祷をお休みとさせていただきます。
期間は八月四日から十七日までとなります。
どうぞご了承くださいませ。
八月八日は通常通りへちま薬師ご縁日となります。
ご祈祷は朝九時から午後三時まで受け付けています。

八月四日~十五日 
盆精霊棚経回向(檀信徒の皆様のご自宅にてお盆のお勤めをさせていただきます)

※お時間などは郵送でお知らせさせていただいております。

※ご都合悪い方はご面倒ですがお寺までお知らせください。

☆住職の通院治療のため、昨年とお日にちの変更などをお願いさせていただいております。

ご不便ご面倒おかけしますが、何卒御協力よろしくお願い致します。

八月十日~十一日
午前七時より正午まで平和公園にて墓地回向。

※前もってご依頼いただきましたら、各墓前にてご回向またお花のご用意もさせていだきます

八月十七日
午前十一時より初盆大施餓鬼

午後十二時より説教

午後一時より盆大施餓鬼

檀信徒の皆様に郵送でご案内させていだいております。

※ご面倒ですがお申込みは同封のお葉書をお使いください。

※当日での受付も可能です。


# by hechimayakushi | 2019-08-05 23:48 | Trackback | Comments(0)
2019年 08月 05日

私説法然伝

『私説法然伝』(55)陰謀術数④

 先月号では「鹿ヶ谷の陰謀」の後の動きについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【治承三年十一月十四日、清盛は数千騎を率いて福原から京の都へ「突入」した。つまり事実上の軍事クーデターである。反平家であった関白松殿基房(まつどのもとふさ)卿は解任され、近衛基実の子の基通を内大臣・関白・氏の長者とした。この強硬策に白河帝は何も対抗することは出来なかった。白河帝は本拠地の法住寺殿を占拠され、鳥羽殿へ幽閉される事になる。政治権力は親平家派で固められた。「日本秋津島(ひのもとあきつしま)は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と『平家物語』に書かれた通り、平家政権の絶頂期を迎えたとも言える状況である。しかし、これが反平家運動に火をつける結果になった。
 治承四年(一一八〇年)二月に高倉帝はわずか三歳の皇太子に譲位された。安徳天皇の誕生である。これで天皇の外祖父となった清盛は厳島神社への安徳天皇の行幸を強行する。天皇の行幸始め・始めての社参は石清水八幡宮・賀茂神社・春日神社であるという「慣習」を無視した清盛への比叡山延暦寺をはじめとする寺社勢力の反発は大きかった。こうした寺社勢力による反発と介入を避け、さらに今後の西国を中心とした交易を基軸とした「政権」を作るために清盛は自らが作る福原への遷都を断行する。その状況下で立ち上がったのが後白河帝の弟の以仁王(もちひとおう)である。四月九日平氏追悼の命を各地の武士に下したのである。この行為を後白河帝は黙認する。しかし五月十五日に平家政権によって計画が察知される。以仁王は源頼政らの軍勢を従えて興福寺へ向かう途中の宇治で平家側の軍勢と交戦し、敗北する。以仁王の「クーデター」は失敗に終わった。だが以仁王の挙兵が東国の武士団の挙兵を促すことになった。八月に伊豆に配流されていた源頼朝の挙兵に続き、甲斐源氏武田氏や頼朝の従兄弟の信濃源氏義仲などが挙兵する。一旦は平家側の軍勢に敗走した頼朝だが、立て直し十月に鎌倉を本拠地とした。これを東国における反平家政権のための「政権」の始まりとも言える。反平家活動は九州など各地で相次いだ。平家側は頼朝打倒の為に軍勢を東国へと差し向けるが、富士川の戦いで敗退する。頼朝ら東国の軍勢は敗走する平家の軍勢を追撃はしなかった。関東における自分たちの「政権」の基盤強化のために鎌倉へと帰還したのである。鎌倉に戻った頼朝は武士団を統括する「侍所(さむらいどころ)」を設置。翌年に元号が養和となったが、頼朝はこれを使わなかった。これは頼朝を首魁とする東国武士団による鎌倉軍事政権の樹立とも言えることであった。】


# by hechimayakushi | 2019-08-05 21:46 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 07月 11日

私説法然伝54

『私説法然伝』(54)陰謀術数③

 先月号では「鹿ヶ谷の陰謀」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【「鹿ヶ谷の陰謀」はものの見事に清盛によって封じられた。そして平家政権は完全に政治的主導権を握ることができた。しかしそれが平家政権の崩壊の序章であった。表面上は後白河帝も清盛も友好ムードを保っていたが、それはあくまで表面上に過ぎなかった。治承(じしょう)二年(一一七八年)清盛の娘であり中宮であった建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)と高倉帝との間に皇子が誕生する。これにより清盛は天皇の外祖父(がいそふ)として完全なる権力者となった。皇子は皇太子として周りも平家側の公卿らで固められた。後白河帝をはじめとする反平家側が何もしなければ平家政権は完全に安泰という状況である。しかし翌年の治承三年(一一七九年)平重盛卿が病を理由に内大臣の職を辞し、同年亡くなってしまう。反平家側を抑える事が出来うる人物がいなくなったのだ。「鹿ヶ谷の陰謀」の発覚後、怒り狂い武装し兵を引き連れて今にも出陣し後白河帝をも討たんとしている清盛に対して「後白河帝の恩に報いようとすれば父の恩を忘れた不孝者となり、父の恩に報いようとすれば不忠の逆臣となる。我が進退ここに谷(きわ)まれり」と涙ながらに父清盛を諌(いさ)めたという逸話があるほど、後白河帝と清盛の間で苦悩し調整に努めた人物の死であり、その死の影響は平家全体の今後を左右するものであった。
 同年に清盛の娘で故関白近衛基実(このえもとざね)卿の妻であり莫大な摂関家領を相続していた白河殿・平盛子(もりこ)も亡くなる。その遺領を後白河帝と関白松殿基房(まつどのもとふさ)卿(基実の弟)が手を組み没収してしまった。さらに重盛の遺領も後白河帝は没収してしまったのである。これは明確な反平家活動であった。後白河帝は反平家であることを隠すことなく行動し始めたのである。この後白河帝の反平家の活動開始は実に巧妙なタイミングであった。
清盛の推し進めた「宋銭」の大量輸入と流通は物価の暴騰を引き起こしていた。同時期に起こった疫病の流行は「宋銭の病」という噂が広まり、世間的な反平家の機運が高まっていた時期であったのだ。清盛は物価の安定の為に估価法(こかほう)という物価の公定価格を決める法律を定め、世情の安定も図られたが、後白河帝は宋銭そのものの禁止も目論んでいたという。後白河帝の一連の動きは清盛を動かすには充分すぎる内容であった。】

 平重盛という人は『平家物語』では「人生が傾く時は悪事を思いつくものだ」と平家の滅亡を予言するかのような言葉を清盛たちに投げかけています。また頼山陽(らいさんよう)という江戸時代の歴史家が著した『日本外史』には重盛の言葉として「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という有名な言葉があります。重盛は長年仕えた後白河法皇と実の父である清盛、この二人を抑えの役目であったと言える存在でした。重盛のおかげで「平和」が保たれていたのです。


# by hechimayakushi | 2019-07-11 22:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 07月 11日

私説法然伝53

『私説法然伝』(53)陰謀術数②

 先月号では平家政権のパワーバランスの崩壊と院の近臣と比叡山延暦寺との争いについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【院の近臣と比叡山延暦寺との争いに関して後白河帝の出した答えは「妥協」であった。当初は騒動の張本人の師高・師経兄弟の弟の師経の処分だけで済まそうとしたが、それが比叡山延暦寺の反感を買い、警備の任に当っていた平重盛の配下と延暦寺の僧徒・僧兵との間で争いが起こり、死者を出す騒ぎになった。後白河帝が延暦寺の要求を飲まなければ騒動が収まらなくなってしまったのである。結果的に後白河帝は延暦寺の要求を飲まざる負えない状況になり「妥協」して延暦寺の要求を一度は飲んだ。その後に安元の大火が発生したのだが、その混乱期に突如として後白河帝は検非違使(けびいし)に天台座主明雲の捕縛を命じる。拘束され移送されていた明雲だが、延暦寺の衆徒によって奪還されてしまう。これに激昂した後白河帝は重盛・宗盛兄弟に延暦寺攻撃を命じるが、重盛・宗盛兄弟は事態の重大さに判断ができなくなり、福原にいる清盛は急遽京へ戻ることになった。後白河帝に攻撃の中止を説得するも失敗。各地の兵力を集め延暦寺攻撃の準備がなされていた安元三年(一一七七年)六月一日に清盛に平家打倒の陰謀があることが密告される。この陰謀は京都鹿ヶ谷(ししがたに)山荘(『平家物語』には俊寛僧都(しゅんかんそうず)の山荘とあり慈円の『愚管抄』には信西入道の子の静賢(じょうけん)の山荘とある)にて謀議がなされた事から「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる。後白河帝の院の近臣で重盛の妻の兄である藤原成親や西光らによって平家打倒の陰謀が計画された、と伝えれるが真偽は諸説ある。清盛は密告を聞いた後に西光を呼び出し拷問にかけ自白させ斬首し、成親は重盛の願いもあったのか流刑、その他の謀議に加わった面々も捕縛された。これにより院の近臣は全滅と言ってもよい状況となる。それは後白河帝の実権が弱まり結果的に平家政権が政治の主導権を完全に掌握することになった。しかし後白河帝と平家一門との対立は決定的なものとなる。さらに清盛の後継者であり平家一門の棟梁でありながらも院の近臣でもあった重盛の立場は、身内であった成親の裏切りによって完全に崩壊してしまった。平家政権と後白河院政とのパワーバランスを最後の薄皮一枚でつなぎとめる事ができた唯一の人物が事実上の失脚状態になることは今後の政局と平家一門の行く末をも左右する事でもあった。】

 「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる一連の事件ですが、『平家物語』や『愚管抄』に仔細が記されています。『愚管抄』の著者であり同時代を生き抜いた慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)は明雲の下で受戒しており、天台座主の座も受け継いだ人物です。摂関家の出で一流の教養人で現実主義的な思考の慈円は「一定の説は知らねども」と陰謀の真偽については確認したわけではないという立場を記しているのが印象的です。


# by hechimayakushi | 2019-07-11 22:31 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)