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へちま薬師日誌

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2020年 09月 14日

私説法然伝68

『私説法然伝』(68)往生する人たち④

 先月号では比叡山延暦寺と法然上人の当時の立場について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が吉水の地に庵を作られた根本的な理由は完全に不明であるし、どのような形で生活を成り立たせていたのかも不明ではある。状況から推測すると、権門という「総合商社」から「給与所得」を得るという事はなく、やはり自活されていたのであろう。しかし「肩書」はそのままであった。これが今後の法然上人の人生並びに法然上人門下の人々の事を考える上で重要な点となる。
 ここで一度法然上人が比叡山延暦寺を降りられた後の足跡を振りかえると、承安(じょうあん)五年(一一七五年)法然上人四十三歳の時に黒谷から西山広谷(現在の総本山光明寺)へ移り、高橋茂右衛門と再会し、遊蓮房と念佛の日々を送られる。治承元年(一一七七年)に遊蓮房が往生し、その後吉水の地へと移り住む。そして戦乱と飢饉と大火と疫病と地震の時代へと突入していく。混乱期は建久(けんきゅう)元年(一一九〇年)法然上人五十八歳の時まで続くのである。
 治承元年から建久元年までのおおよそ十三年間は、念佛の日々であると同時に、法然上人が世間的にその認知を広められた年月でもあった。具体的に何をされていたのかという資料は少ないが、伝記に法然上人の言葉として残されているように、木曽義仲の京都乱入の日以外は「聖教(しょうぎょう)」を観る日々であったと伝えれれている。つまり研究活動と言える日々であったとも伺えるのである。経典を読む、つまり読誦(どくじゅ)するとは話されていない。法然上人にとって聖教とは何かという事になるが、伝記などでの法然上人の言葉から推察するに、広く仏典全般を指すと考えられる。状況から考えていくと、おそらくは本願念仏というものを体系的に、または学問的にまとめられていたのではないだろうか?ではなぜそうする必要が有ったのか?という疑問点が浮かび上がる。単純に信仰生活という点で考えれば、お念佛だけの日々で良いわけであるが、聖教を読むという行為には意味があったと考えるべきである。その意味は法然上人が治承(じしょう)元年以後にどのような人々とどのような関わりを持っていたのかを観ていくと、その意味の輪郭が浮かび上がるのではないであろうか。】

法然上人の謎の一つが吉水の地を選ばれた理由です。これは本当に誰も明確に理由がわからないことです。しかし法然上人にとっては吉水の地でなければならなかったのでしょう。法然上人の生まれ故郷にどことなく似た雰囲気があったからではないか?と手前勝手に考えた事もありますが、こればかりはタイムマシーンでもないとわかりません。


# by hechimayakushi | 2020-09-14 21:15 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 09日

私説法然伝67

『私説法然伝』(67)往生する人たち③

 先月号では法然上人のその後と関係する寺社の権門化について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人がおられた比叡山延暦寺は、その当時すでに「権門」となっていた。つまり「総合商社」化である。総合商社とは何かと言えば、徹底したピラミッド型組織と徹底したセクト主義である。なので比叡山延暦寺とは何かと言えば総合商社そのものであり、それは一つの「山」というよりもいくつもの「山」が連なる山脈のようなものである。法然上人は「学僧」(学侶・学問僧)という身分であり、「山」の中においては祈祷や法要と学問研鑽を集中的に行う僧侶であった。その後「隠遁(いんとん)」つまり学僧という立場を辞め、隠遁僧という「セクト」に入られる。その後、本願念佛の道へと進まれたのである。本願念仏の教えに進まれるということは学僧であること、つまり比叡山延暦寺という「総合商社」の「正社員」という権利を放棄するということであった。この「正社員」は大きく分けて二つあり、法然上人のような「学僧」と、親鸞聖人がそうであった「堂僧」という財務や庶務などを担う寺院運営の実務者に分けられる。そして「正社員」の組織の下には「アウトソーシング」化された組織があり、いわゆる下請け会社が多数存在していた。例えば今日祇園さんとか八坂さんと呼ばれる八坂神社もそうであった。宗教的には今日完全に別個のものである寺院と神社であるが、当時は「総合商社」の時代であり、アウトソーシングの時代であるので、組織体系としてつながっていたのである。八坂神社の配下には様々な職能民が、孫請会社であったり人材派遣会社であったりと役目に応じた組織として存在しアウトソーシング事業の一端を担っていたのである。
 法然上人はその「総合商社」の正社員である事はやめたが、総合商社の肩書は生涯捨てる事はされなかった。あくまで比叡山延暦寺学僧として本願念仏の教えに目覚め、本願念仏の教え広められたのである。給与所得者としての正社員という立場は捨てざるおえなかったが、解雇処分というわけでも自主退社というわけでもなく、肩書だけは残されたままであったという事であろう。学僧でもなく堂僧でもない「念佛の聖(ひじり)」という立場になっても、ある程度比叡山延暦寺という巨大なシステムとの繋がりを残しておかない事には生きることすらままならない時代であったのだ。】

「権門」というものがどのようなものであったのか、そして比叡山延暦寺のシステムがどのようなものであったのか、それが実は法然上人の生き方を観ていく上で重要となるわけです。現代では僧侶とはお寺の住職などのイメージで、掃除も財務も法事も勉学も修行も何もかもするというイメージですが、歴史的に観ていくと僧侶と言っても立場によって全く違うものであったのです。法然上人がどのような立場から法然上人として活動されていくのか、それが法然上人の人生を観る時に重要となるのです。


# by hechimayakushi | 2020-08-09 21:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2020年 07月 15日

お盆のご案内など

~お盆のご案内~
8月1日より15日まで
盆精霊棚経参り
檀信徒の皆様には別途お時間などお知らせいたします
※ご都合の悪い方はいつでもお寺までお知らせください

8月10日と11日
午前7時より正午まで
平和公園墓参日(交通規制にご注意ください)

8月17日
施餓鬼会法要(午前9時より正午まで)
檀信徒の皆様には別途お知らせさせていただきます
お知らせに同封のおハガキにてお申し込みください
今年度は新型コロナウイルス対策といたしまして時間を変更させていただきます
午前9時から正午までいつでもお参りください
お食事の代わりに記念品とさせていただきます



# by hechimayakushi | 2020-07-15 19:09 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2020年 07月 15日

私説法然伝66

『私説法然伝』(66)往生する人たち②

 先月号では法然上人のその後と関係する「権門」と「延喜の改革」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【アップデート=延喜(えんぎ)の改革により日の本の政治=統治体制が刷新された。朝廷=中央は各地の請負制度(アウトソーシング)により現地を統治する方式となったのだが、それにより各地の独立性が高まった。中央が直接的に支配する地域は畿内中心となり、中央政治においては各地より上奏されてくる諸問題の決裁を中心としたものとなった。その政治体制の中で重要となるのが年中行事を円滑に行う事、そして人事権となる。長きにわたり御親政を行った村上天皇が康保(こうほう)四年(九六七年)に崩御される。その後冷泉天皇が即位されるが「気の病」があったとされ、実質的な政治権限は摂政・関白となる藤原実頼が握る事になる。この後は政治的な主導権争いが藤原氏と源高明(みなもとのたかあきら)(醍醐天皇第十子)との間で起こり(安和の変)それに勝利した藤原氏がこの後絶大な権力を握る事になる。つまり摂政・関白という地位の独占化である。これにより藤原氏は摂関家として君臨し、摂関家が固定化する事により「天皇」という存在も朝廷という意義も固定化されていくのである。当然上位貴族=公卿の固定化、実務官僚や軍人の職業としての固定化、様々な職能団体の固定化などが始まるのである。この時代では多くの職能民が生まれ、多様化し「芸能の民」として受け入れられていく。権力が固定化されると同時に社会に多様性が生まれ固定化されていったのである。寺社勢力も同じく、朝廷の支配を受けつつも独自の「職能団体」となっていく。経済基盤として「不輸(ふゆ)の権」(非課税地)を持つ荘園を持っていたが、当然それらの地に住む人々は職能民も多く存在し寺社の統治下で組織化されていく。金融や輸送などを行う職能民も寺社の組織の中で発展する。つまり寺社勢力もまた「世俗社会」の動きと同じく「アップデート」されていったのである。国家直営によりスタートした日本の寺院、さらには神社もまたアップデートされる事により直営体制から独立した「企業集団」のような形態に変化していったのである。これは必要に迫られた変化でもあった。国家直営では運営が成り立たないからである。また「競争」という現実もアップデートを迫る理由であった。寺社間の勢力争いは競争を生み出した。朝廷=国家よりの統治体制は官人による「俗別当(ぞくべっとう)」という非僧侶による寺社の間接的な統治体制であったが(例えば最澄は延暦寺の警護や運営の為に俗別当の設置を朝廷に求めた)このアップデートの時期になると有力寺社には天皇家や藤原摂関家を始めとする有力な家からの出身者が僧侶となり、高位の僧となり支配層となることで世俗での権勢や家格が僧侶世界に持ち込まれる事になり、それが競争を加速させたのである。そうして寺社勢力はアップデートにより運営規模の巨大化と共に「権門」となっていくのである。】


# by hechimayakushi | 2020-07-15 19:01 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2020年 07月 15日

私説法然伝65

『私説法然伝』(65)往生する人たち①

 先月号では後白河帝が建礼門院徳子を訪ねる『平家物語』最後の場面について書きました。今月号はその後の法然上人について書きます。

【治承(じしょう)元年(一一七七年)頃に法然上人は吉水の地(現在の知恩院あたり)に庵をつくり念佛を申される日々だったと伝えられているが、世の中の慌ただしさの中でひたすら自らが目指す道を歩まれていたのであろう。まったく引きこもっての念仏だけの日々、という事でもなかったと思われる。比叡山延暦寺での生活とは違い、何もかも自分で行わなければならかったであろうし、そのためには収入を得る必要もあったと思われるのだが、そういった点は仔細が不明である。よく南都の興福寺や比叡山などを「権門(けんもん)」と呼ぶが、権門とは本来は藤原摂関家であった。しかし院政期となると「治天の君」として君臨する「王家」によって藤原摂関家の勢力が削がれ、新興貴族や軍事貴族、さらに寺社勢力も権門となっていくのである。本来的な権門とは藤原摂関家のように権力を掌握し広大な荘園を持つ事であったのだろうが、法然上人の時代では独自の軍事力と経済力を持つ勢力も権門となるわけである。教科書的にも誤解を招く書かれ方がされているのは、結果論としての権門化についての記述しかない点である。新興貴族や軍事貴族は結果論として権門化した、寺社勢力もまた結果論として権門化したのである。結果には原因がある。つまり権門を生み出した原因とは何かという事が重要となるのである。醍醐帝の時代(寛平九年・八九七年以降)に宇多上皇と菅原道真が用意し藤原時平によって行われた日の本の大改革を延喜(えんぎ)の改革と呼ぶが、この時代に行き詰まっていた古代律令制からの脱却によりシステム全体の大幅なアップデート(大幅な更新)が行われたのである。簡略に説明すると、税金をどう徴収するのか、という点のアップデートであり、そのアップデートによって国全体のあり方も変化せざる負えなかったのである。そのアップデートによって税の徴収から輸送などが各地の人員によって請負式で「自動化」されていき、それら請負人たちが独自の勢力となっていくのである。その請負人とは、各地の有力な農業経営者であったり、輸送業者であったり、護衛業者であったりする。そのアップデートによって発注元である国家または領地を持つ藤原摂関家や有力寺社もまた変化していったのである。】

延喜の改革とは行政官がやっていた業務のアウトソーシング事業化と観るとわかりやすいと思います。ここで注意点となるのは寺社がなぜそうする必要があったのかという点ですが、寺社は本来国家機関の一部であったからです。


# by hechimayakushi | 2020-07-15 18:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)