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へちま薬師日誌

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2021年 10月 13日

私説法然伝80

『私説法然伝』(80)法然がくる⑦

 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【文治元年(一一八五年)、後白河帝は義経を取り込み使うために、義経に求められるまま頼朝追討の宣下を下された。しかし義経は没落した。即ち頼朝による後白河帝へのチェックメイトである。ここで頼朝にとって重要となるのは、王手とは言っても打ち込む「駒」がないのである。つまり京都に地盤の無い頼朝にとって、信頼できる「駒」が京都にないのである。京都、つまりは後白河帝並びに朝廷を抑えなければいけない。それが出来る人材は源氏にいるはずがない。そこで頼朝の出した答えが、突然の兼実の内覧指名である。つまり朝廷政治トップに兼実を置く事にしたのである。これは兼実にとっても青天の霹靂であったようで、日記にもそう書かれている。
 いずれにせよ九条兼実という人物はここで一気に政界トップへと上り、波乱の人生となるのである。そしてそれが法然上人と出会う事へとつながっていくのである。】

ここまで一気に九条兼実という人の半生を追ってきました。九条兼実を理解するには色々と歴史的経緯を理解しないといけないのです。重要な点は、彼は基本的に極めて非常に政治的であるという事です。もっとも当時に摂関家に生まれた時点でそれは決められたようなものです。本来は嫡男の正統というわけではないのですが、彼の才覚と状況判断によって政治的にトップへと登っていくわけです。それはたまたまという点もあるのでしょうが、兼実自身もまた政治的に目指すものがありました。ですので彼はただ自分のやりたいようにやるのではなく、敵対する相手とも手を結ぶ事を厭わず、それは父の忠通卿と同じく極めて政治的に上手くやる事を心がけていたのでしょう。ただし、ここで言う「政治的」というものは今日的な政治ではなく、あくまで「朝廷」における政(まつりごと)です。立法や行政的な面だけでなく、朝廷行事や祭祀なども重要となります。その点では九条兼実という人は極めて有能であったと言えます。それは彼の残した日記である『玉葉』からも伺いしれますし、兼実の弟で天台座主となる大僧正慈円の記述からもそう言えます。ただし、摂関家氏の長者、つまり「藤原摂関家」という日本における名家の中の名家の中のトップであり、さらに政治のトップともなった彼の内面にあった強烈すぎる自負は、後々の彼の人生によからぬ影響を与える事になります。そこで法然上人との出会いがあるわけですが、その重要性または意味を知るには、日本国とその歴史における最重要事項を知っておく必要があるのです。
 それは次回より詳細を書かせていただくつもりですが、以前にも少し書きました「王家」と「王権」というものが重要となってくるのです。西欧や中華とも違う日本という国家における特異点のようなものでもあります。


# by hechimayakushi | 2021-10-13 16:08 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2021年 09月 15日

私説法然伝79

『私説法然伝』(79)法然がくる⑥

 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【平家との関わりで兼実の息子である良通卿を厚遇してもらうなど、九条家にとって良い結果となったのだが、兼実にとっては面白くない事でもあったようである。そして最初は甥のために有職故実・政治というものを手ほどきをしていたようだが、治承(じしょう)四年以仁王(もちひとおう)の挙兵以後はまた朝廷と距離を取ることになる。どの勢力にも与しないという意思表示である。後白河帝とも距離を取り、甥の関白基通とも距離を取り、諸勢力と距離を取るのだが、表面上は敵対するわけでもなく、様子を見る事としたのであろう。治承(じしょう)五年の清盛の死によって流れが大きく変わっても傍観者で有り続けた。これは後に大きく影響する。当時の兼実は朝廷よりも八条院暲子(はちじょういんあきこ)内親王へ接近していたようである。これは極めて政治的な意図がある。
 鳥羽帝と美福門院得子(びふくもんいんなりこ)との間に生まれた「皇女」である八条院暲子内親王は広大な荘園を受け継いだ。当時有数の荘園領主となった八条院暲子内親王の持つ力は凄まじく、治承四年に猶子としていた後白河帝の息子の以仁王が反平家の挙兵を行うと、その援助をしていたのは八条院暲子内親王ではないかと言われた程である。また後白河帝の院政を支え続けたのも八条院暲子内親王だとされている。八条院暲子内親王自身に特別な政治能力があったわけではないと言うが、皇后でないのに女院号を宣下される存在であり、鳥羽帝の嫡流として最重要人物として扱われていたのは確実である。
 九条兼実は八条院暲子内親王に近づき、彼女に仕えていた三位局(さんいのつぼね)との間に意図せず実子をもうける事になった。これは本人もまったく意図していたわけでもない事であり単なる「政治的交渉相手」であったのが三位局との事で、つまり愛情の結果というわけでもないらしいが、何にせよ九条兼実の四男となる後の九条良輔(よしすけ)は生まれて後に八条院暲子内親王に引き取られる事になった。つまり九条兼実は政治的に八条院暲子内親王と深く関わりを持つ事になった。そして八条院暲子内親王の猶子以仁王の挙兵により、各地の八条院暲子内親王領では武士達の反平家の武装蜂起が起きた。つまり九条兼実はどちらかと言うと反平家側に近づいていたのである。そしてそれが兼実にとっては思わぬ結果をもたらすのである。後に平家を打倒した源頼朝にとっての「信頼すべき政治パートナー」として選ばれる事につながっていくからである。】


# by hechimayakushi | 2021-09-15 01:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2021年 09月 15日

私説法然伝78

 『私説法然伝』(78)法然がくる⑤

 先月号では法然がくるということで、「大原問答」後の九条兼実との出会いについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【九条兼実という人は非凡な生まれであり、また非凡な才覚の持ち主でもあった。摂政関白であった藤原忠通(ただみち)卿の六男として生まれ、異母兄の近衛基実(もとざね)卿らに続いて朝廷内で出世していく。当時の摂関家つまり藤原家は忠通卿の弟の悪左府頼長(あくさふよりながら)卿という強烈すぎる個性と才覚を持った大人物を失い、平家の時代となり、完全に勢力を失っていた。しかし藤原家には代々培ってきた莫大な「財産」があった。それは「知識」である。忠通卿は父である忠実卿と弟の頼長卿と対立してしまった事で逆に数々の乱を生き延びる事ができた。弟の頼長卿や信西入道のような強烈な個性や才覚は無かったとの評価が多いが、この生き残ったという点から逆算すると凄まじい状況判断能力があったと思われる。状況に応じて上皇などの畏きあたりや平家や他家とも手を結び数十年に渡って摂政関白として政治の中枢にいたのである。並大抵の才覚ではない。そして息子達の教育方針も状況に応じたものとなった。かつてのように朝廷を差配し、莫大な領地を支配し、日の本に君臨する藤原家一門という生き方を自ら封じ込めた。代わりに余人を持って代えがたい存在として朝廷に君臨することにしたのである。つまり「有職故実(ゆうそくこじつ)」(古来の先例を基にする朝廷や公家の法律や決まり事に儀式の作法などのこと)という「知識」を支配し、専門化していったのである。この狙いは大成功となり、これより数百年の永きに渡って藤原摂関家は忠通卿の子孫が継ぎ守る事となる。
 九条兼実という人はまさに父の狙い通りに学び育つ。そして十六歳にして内大臣となっている。内大臣とは摂政関白職に就けるようになるための「登竜門」とも言うべきものであり、いかに九条兼実卿への期待が高かったのか、これでわかるのである。
十八歳で右大臣となると、長く右大臣職に留まる。病気などを理由に朝廷への出仕を拒んだためだという。転換期となるのは治承(じしょう)三年の政変である。清盛による後白河帝へのクーデターであった。そこで清盛が推す兼実の甥である近衛基通(もとみち)卿が関白となるのだが、その補佐を兼実が担う事になった。兼実の兄の近衛基実卿が亡くなった時に基通は六歳であった。そのために充分な教育が受けられず、また朝廷内でも実務経験を積めずに関白となったので、失態が多かったからである。兼実は甥のために働く事としたのである。】


# by hechimayakushi | 2021-09-15 01:10 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2021年 07月 13日

私説法然伝77

『私説法然伝』(77)法然がくる④

前回では法然がくるということで、「大原問答」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人の考え、思想、生き方に共感し賛同する人たち。例えば弟子であるとか、信者という人たちではなく、顕真法印(けんしんほういん)という天台座主になるような僧侶が賛同するという事の意義を一言で表せば、道理や理論を越えた「正しさ」がそこにあったからではないだろうか?思わず感謝の念佛の行道をしたくなる程の「正しさ」があったのだろう。それは法然上人が「正しい」というのではなく、法然上人の説かれた内容つまり本願念仏という他力の領解(りょうげ)(深く理解すること)が「正しい」と言わざるおえなかったのであろう。それはそうなのである。他力本願念佛とは、我々が「正しい」のではなく佛が「正しい」と言う「原理原則」であり、その「原理原則」に基づき佛が我々を救うという「物理」である。これは極めて明瞭な方程式であるが、人間にはその方程式が理解しにくい、また理解したくないものでもある。だからこそ天台座主となる僧侶に賛同されたかと思えば、その天台座主が治める比叡山から激しい攻撃も受けるという「非論理的」な事になるのである。「法然がくる」ことで世界に「正しさ」が広まるわけである。大原問答以降に起こる事は、その「正しさ」に対する「化学反応」のようなものである。
 大原問答の三年後、また一つの化学反応が起こる。これは法然上人にとって一つの大きな分岐点でもあった。文治(ぶんじ)五年(一一八九年)の八月一日、摂政そしてすぐに関白太政大臣となる九条兼実(くじょうかねざね)卿が私邸に法然上人を招き、教えを聞きその教えについて話したと兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』にある。法然上人にとって最大のスポンサーであり、熱烈な信者であり、ある意味では年の離れた友人とも言える不思議な関係の始まりであった。どのようにして兼実卿が法然上人を知り、そして呼んだのかははっきりとした理由は不明である。大原問答の影響なのか、それとも結びつける人がいたのか、わからないが、とにかく出会ったのである。兼実卿はこの後、何かと法然上人を呼び「頼る」。それは頼るとしか言いようのない事であった。摂関家の正統の中の正統であり有職故実(ゆうそくこじつ)(古来の先例を基にする朝廷や公家の法律や決まり事に儀式の作法などのこと)の第一人者であり、何より当時の政界を動かす最重要人物の一人であった関白九条兼実卿が法然上人をただひたすら「頼る」のである。それは何故なのであろうか? 】


# by hechimayakushi | 2021-07-13 22:17 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2021年 06月 09日

私説法然伝76

『私説法然伝』(76) 法然がくる③

先月号では法然がくるということで、「大原問答」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【大原問答の結末は、顕真法印の感謝感激の念佛行道にて終わったと伝記にはある。顕真法印は法然上人を称賛して阿弥陀佛の化身であるとまで言われたのだ。よほどのインパクトであり感激であったのだろう。顕真法印はこの後に念佛の人となった。そして天台座主となり、やがて往生を迎えるその日まで念佛の人であり、他者へも念佛を勧め続けた。なぜなのだろうか?
 それは、法然上人の言葉に顕真法印の望んでいた答えがあったからはないだろうか?『法然上人行状絵図』にはこの後の顕真法印の消息(しょうそく)(手紙)の内容が記述されている。そこにある言葉から考えていくと、顕真法印にとって重要であったのが、罪障消滅という認識である。罪障消滅とは、自分が作り出す罪障=悪業が消えるかどうかという事である。顕真法印は法然上人の話を聞いて、念佛の利益(りやく)=功徳は自己の作り出す悪業(あくごう)が消えるのだという確信を持った。正確に書けば、自己の悪業が極楽往生の妨げにならないという事であり、それは阿弥陀如来の願いは罪障を持つ我々を救う事であるからである。法然上人は学問の人であり、顕真法印もまた同じくである。求めるところは同じであり、悩むところも同じくであったのだろう。法然上人は一つの気づき=回心によって念佛というものを理解されていったように、顕真法印もまた気づきがあったのであろう。
 大原問答からわかる事は、法然上人の考えを理解し賛同する法然上人とは全く違う立場や考え方の僧侶がいたという事である。単純にカリスマ性であるとか話術であるとか、そういった点で法然上人が世に認められたわけではないという事である。法然上人の考えた結果であるとか見つけた事実によって認められるのである。この点が非常に重要な点である。それは今後の法然上人の人生にも関わる事でもあのだ。今後の法然上人の人生を考える点で、大原問答というものは非常に示唆に富むのである。顕真法印という天台座主になる程の僧侶が法然上人の示した思想に賛同したのである。これは非常に重要な点である。】


# by hechimayakushi | 2021-06-09 22:36 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)