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へちま薬師日誌

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2022年 09月 28日

大般若のお知らせ

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# by hechimayakushi | 2022-09-28 16:45 | おしらせ | Trackback | Comments(0)
2022年 09月 14日

私説法然伝91

『私説法然伝』(91)助けてほしい⑥

 先月号では法然上人の弟子になる武者・熊谷次郎直実について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【熊谷次郎直実は京の都へ来た。伝記本によればそこで聖覚法印(せいかくほういん)(信西入道の孫)を訪ねたという。法然上人の教えを信じていた聖覚法印であったので、熊谷次郎直実に法然上人のところへ行くよう勧めたという。そこでどのような問答があったのかは不明だが、すでに法然上人の事は知っていたはずである。そうでなければわざわざ京の都へ来る必要もない。伊豆で出会った念佛僧(尼僧と伝えられている)から情報は得ていたはずである。なので取次のような形でまずは聖覚法印に面会したのではないだろうか?そして満を持して法然上人との面会となったのではないだろうか?おそらく建久年間において法然上人はすでにそれなりの数の信徒を抱える教団を築きつつあったのではないだろうか?無論、南都北嶺または門跡寺院のような所領を持つほどの勢力には足元にも及ばないであろうが、教団として着実に成長していた事は九条兼実ほどの実力者も信徒となっていることから推察出来る。九条兼実、善慧房證空、熊谷次郎直実、という三者が法然上人と関係を結ぶ、それらは関係が無いように見えるが、今の時代から見つめ直すとまた見えてくるものがある。その一つが九条兼実が法然上人との関係が深くなるということは、同時に経済的にも関係が深くなるということである。つまり最大の「檀家」とも言えるのである。それによって法然上人の「教団」が維持され弟子を増やすことが出来るようになる。そうなると善慧房證空のように最初から法然上人のもとで学びたいという者が現れてくる。法然上人のもとで学んだ者が増えれば、それを各地に伝える者も増える。それによって熊谷次郎直実のように坂東武者も法然上人を訪ねて弟子となることが可能になったのである。こうして法然上人の支持者は増えていったのである。
だが、それは喜ばしい事ばかりでもなく、やがて法然上人の人生に深く影響する出来事の始まりでもあった。
 熊谷次郎直実が法然上人の吉水の坊舎を訪ね、面会する日がやってきた。法然上人を待っている間、熊谷次郎直実は短刀を取り出し、研ぎ始めたという。】


# by hechimayakushi | 2022-09-14 19:27 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2022年 09月 14日

私説法然伝90

『私説法然伝』(90)助けてほしい⑤

 先月号では法然上人の弟子になる武者・熊谷次郎直実について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【文治(ぶんじ)三年(一一八七年)鶴ケ岡八幡宮で開催された放生会(ほうじょうえ)(殺生の罪を滅罪し生善の為に生き物を池などに放つ行事)の催し物の流鏑馬(やぶさめ)(乗馬し的を射抜く)で、的を立てる役に任じられた熊谷次郎直実は、それを不服として役目を果たさず、それが原因で所領を没収されたと言う。さらには育ての伯父の久下直光と所領をめぐる裁判沙汰になる。建久(けんきゅう)三年(一一九二年)すでに鎌倉殿として君臨し、さらには征夷大将軍ともなっていた頼朝の御前にて口頭弁論が行われた。口下手の熊谷次郎直実にとっては裁判は苦痛でしなかったようである。頼朝の質問にも上手く答弁が出来なくて、最終的には梶原景時が良からぬことを頼朝に吹き込んでいるに違いないなどと怒り出し、その場で髷(もとどり)を落として出家すると叫んでしまう。そして実際に髷を切り落として放逐してしまったと言う。裁判の場にはあっけにとられた頼朝が取り残されたと伝えられている。諸説あるが、建久三年以前に出家していたという説もあり、またこの出来事は建久三年以前に起きたのではないか、という説もある。いずれにせよ『吾妻鏡』という鎌倉幕府にとって重要な資料に記載されるほどの事であり、おそらく事実なのであろう。こうして熊谷次郎直実という武者、言い換えれば戦場でしか輝けない根っからの軍人は最高司令官の眼前で全てを投げ捨てたわけである。そして伊豆にいた念佛僧たちから法然上人についての話を聞いた熊谷次郎直実は法然上人のいる京の都を目指すのである。】

ここまでで九条兼実、善慧房證空、熊谷次郎直実という三者が登場いたしました。いずれも三者三様の人生模様です。九条兼実は言わずとしれた藤原摂関家の氏の長者であり、関白という現代で言えば総理大臣職を務める大物政治家でありました。そんな彼がなぜ法然上人に助けを求める事になるのか?善慧房證空は、九条兼実の最大のライバルであった久我通親の猶子(ゆうし)にして実務官僚として確実な未来があったにも関わらず新興教団であった法然上人になぜか弟子入りするという不思議。そして職業軍人であったために戦のない世界では生きる場所を失った男であった熊谷次郎直実がなぜか法然上人と出会い、弟子となり念佛の道へ進むのはなぜか?それらを見つめ直すことで、実は法然上人が何を伝えられていたのか、本願念佛とは何か?ということが浮かび上がって来るのです。


# by hechimayakushi | 2022-09-14 19:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2022年 09月 14日

私説法然伝89

『私説法然伝』(89)助けてほしい④

 先月号では法然上人の弟子になる武者・熊谷次郎直実について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【一の谷の戦い、源平合戦最大級の合戦であるが、その全体像は実はあまり知られていない。義経の逆落としの印象が強すぎるせいだろう。この戦いの全体像は、西日本で数万騎まで盛り返した平家軍と鎌倉方の本体源範頼軍五万六千騎と源義経軍一万騎が平家の本拠地である福原の地でぶつかり合った戦いである。一の谷の戦いとは、福原の地の一部の地名であり、実際にはもっと広範囲で合戦が行われた。、だが源義経という日本戦史に残る「偉業」を達成した男の影響度の大きさによって一の谷の戦い、一の谷の合戦と後年呼ばれる事になるわけである。そして何より恐ろしいのが、義経は七十騎あまりの精鋭の中の精鋭で平家方の大軍勢を急襲した事である。これもまた諸説あり、いわゆる「鵯越」伝説などもあるが、とにもかくにも「逆落とし」という軍馬にまたがり急な斜面、おおよそ馬が降りられるようなところではない山からの敵部隊への奇襲作戦を実際に行ったのは、ほぼ間違いないのである。そして熊谷次郎直実という男はその中にいて、さらにその中の先駆けとして平家軍へ突撃したのである。そしてその結果、平家軍は混乱しながらも一騎駆けの直実は敵に囲まれてしまい、一歩間違えれば確実に討ち取られていたという。直実とは、まさに坂東武者そのものであり、戦ばかりの人生を歩んできた歴戦の強者であり、戦闘のプロフェッショナルである。
 合戦は平家方が海へと逃れる形で終わる。平家は強力な水軍を持って、瀬戸内海から九州までを支配していた。逃げるのも当然海である。直実は敵、つまり「首級」を求めて馬を海まで進めた。そこで遭遇したのが平敦盛、若干十七歳ほどの若武者である。若武者というよりは、まさに平家の公達という風貌であり、美しかった。そして平家の公達として、実に堂々としていた。その敦盛を馬から引きずり降ろし、組み敷いて首を切り落とさんとするその瞬間に直実は敦盛の風貌にハッと息を飲み固まった。自分の息子と同じぐらい年齢の若者を殺す事をためらってしまったのである。思わず助けたいと思ってしまった。我が息子が戦の中で小傷を負っただけで心配になるのに、この若者を討ち取ったら、この若者の親はどれだけ悲しむのであろうか、そんな心の葛藤が直実の中で巻き起こってしまった。あの直実、義経軍という最前線の中でさらに先駆けをする程の男がそう思ってしまったのである。だが逃してもいずれ背後から迫る味方の軍勢に追いつかれるのは間違い無い。敦盛に泣きながら必ず供養もすると伝えて討ち取った。
 直実はよほどこれが堪えたのだろう。歴戦の強者が戦場でさめざめと泣いたと言う。敦盛の腰の一つの小笛があるのを直実は見つけた。昨夜直実が聞いた笛の音色はこの若者の奏でるものであった。この笛の名を「小枝(さえだ)」と言う。】


# by hechimayakushi | 2022-09-14 18:54 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2022年 07月 08日

7月8日お知らせ

本日のご祈祷受付は午前10時半までとさせていただきます。

# by hechimayakushi | 2022-07-08 10:14 | おしらせ | Trackback | Comments(0)