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へちま薬師日誌

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2013年 11月 17日

11月のことば

「ある時、世尊は、ウルヴェーラー(優楼比螺)のネーランジャラー(尼連禅)河のほとり、菩提樹のもとにあって、初めて正覚を成じたもうた。そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみを享けつつ坐しておられた」南伝小部経典・自説経(ウダーナ)菩提品より

「世尊」とはお釈迦さま(ブッダ)のこと。
「正覚を成じたもうた」とは「さとり」をひらかれたということ。
「結跏趺坐」とは坐って瞑想をされたということ。

先月はお釈迦さまがさとりをひらかれる前の段階の事を書きました。
今月はお釈迦さまのさとりはどのようにしてひらかれたのか、さとりとはどのようなものか、について書きたいと思います。

まず、さとりはどのようにひらかれたのか?ということですが、実は詳しい事はわかっていません。
菩提樹のもとで坐り、瞑想(禅定)し、八日目の明けの明星輝く頃にさとりをひらかれた、ぐらいしかわかりません。
そのさとりをひらいた瞬間がどのようなものだったのかはお釈迦さまは語られていません。
しかし、さとりをひらかれてからの後の事は語られています。
まず・・・
①七日間さとりをひらかれた楽しみを味わっておられた
②その後、「縁起の法」にしたがってありとあらゆる物事を観じられた
と仏伝にはあります。

ここで「縁起の法」が登場します。
これは「全ての物事には相依性がある」つまりありとあらゆる事の成り立ちには相互的な関係性がある、ということになります。
「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず」という言葉が残されています。
お釈迦さまは「縁起の法」によってありとあらゆる物事を観じられた、つまり「縁起の法」という事にありとあらゆる物事を当てはめた、ということです。

さとりをひらいた後にそれを行ったということは、「縁起の法」をさとったので、それを行った、とも上記内容から考えると、そうだと言えなくはないです。

ここで先に述べた①七日間さとりをひらかれた楽しみを味わっておられた、ということを考えていきたいと思います。
お釈迦さまはなぜたのしみを享受されていたのでしょうか?
それは何がどうなって楽しみを享受されることになったのでしょうか?
今までにも書きましたが、お釈迦さまは生きる事の苦しみからの脱却を目指して出家されたわけです。
その目的が成就されたからこそ、たのしみを享受された、と言えます。
つまり「さとり」によって「苦しみ」が消滅した、ということです。
「苦しみ」が消滅するとはどういったことでしょうか?
「苦しみ」を消滅させるにはその原因を消滅されば良い、という原理は当時すでに発見されていたと言われています(先月書いた五火・二道説という輪廻思想は苦しみの再生産であり、それからの脱却を目指すのが出家者であった)
その原因とは一体何か?
五火・二道説という輪廻思想の根本には「業」(カルマ・karman)という考え方があります。
これは簡単に言ってしまえば「行為の結果」ということです。
悪い行為の結果が積み重なって、人々は輪廻を繰り返し、それはつまり苦しみの脱却ができない状態である、というのが当時のインドでの考えであったと言われています。
では、悪い行為を一切行なわない状態であれば、または良い行為のみを行えば、苦しみからの脱却ができるのではないか?
そう考えた人々が、先月にも書いたアーラーラ・カーラーマ等の出家者、苦行を行う修行者たちであったのです。
お釈迦さまはその人々のやり方では苦しみからの脱却はできない、として瞑想(禅定)に入られたのですから、単に行為として悪を為さない、善を為す、だけでは苦しみの原因が消滅することはないとなります。

そこでまた「縁起の法」が登場します。
お釈迦さまはさとられた後、縁起の法によって全ての物事を観じられました。
さとりをひらかれた直後の七日間はさとりをひらかれたたのしみを享受されていたのですから、さとられてから得たものではありません。
では、先に「縁起の法」をさとった内容と仮定しましたが、そうすると苦しみの根本原因を追求することが時系列的にさとりの後になってしまいます。

では、②その後、「縁起の法」にしたがってありとあらゆる物事を観じられた、の後はどうされたのでしょう?

③「縁起の法」にしたがい全ての物事を観じた結果、お釈迦さまは「無明」から「苦しみ」が発生したと発見された
④「苦しみ」の原因は「無明」であると発見されたお釈迦さまは、「無明」を消滅させれば「苦しみ」が消滅すると発見された

☆11月22日訂正を入れました
ここで以前にも書きました「無明」というものが登場します。
これは簡単に書きますと「人間のもっている根本的生存欲が発生する状態」です。
ご飯を食べなければお腹がすきます。
そうすると人間はご飯が食べたくなります。
または、息を止め続ければ苦しくなり、どうしても息がすいたくなります。
それらは自分が望む・望まないに関わらず発生するものです。
それらが発生している状態を「無明」と言います(厳密に詳細を書きますと長くなるので割愛して表現しています)

ここで問題になりますのが、先に書いた「さとりをひらいたから苦しみが消えた」という部分に矛盾点が生じることです。
時系列的では「さとり→たのしみ→縁起の法により苦しみの原因の発見」となります。
苦しみの原因がさとりの後から発見されたとするならば、さとりをひらいた時点で発生した「たのしみ」は苦しみの原因を消滅させたたのしみではなくなるのです。
つまり「さとり=無明の消滅」と言えなくなってしまいます。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
「さとり」=「涅槃」=「成仏」です。
以前に「そして苦の原因である煩悩の元となる「無明」を消滅させれば苦は消えることをお釈迦さまは悟られ、そして全ての存在は諸行無常で諸法無我であると悟られ、涅槃(安楽な精神状態)に入られ仏と成り苦しみから逃れられたのです」(本年度9月のことばより)と書きました。
仏と成る、成仏したということは涅槃に入られたということですし、それは「さとり」に到達したということです。
そしてそれは、苦しみからの脱却が成った、ということです。
ということはつまり「無明」を消滅させることに成功したということに他なりません。
では、どのようにして「無明」を消滅させることができたのか?
9月のことばに書いたように、私は「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」という「真理」に到達した=さとり、であるからこそ「無明」が消滅したのだと私は考えます。
そして「無明」の消滅に成功した際に、「縁起の法」という真理にも到達したのではないでしょうか?もしくは「縁起の法」自体にはあらかじめ到達されていたとも考えられます。
 「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」ということをさとったとするならば、「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」をさとれば、お釈迦さまのさとりと同質のものをさとったと言えることになります。
しかし、「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」をさとるとはどういうことなのでしょう?
私達は現在「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」というものがどのようなものか知ることができます。
しかし、知ったからさとれるのでしょうか?

「知る」ということを考えてみるとわかります。
私達が「知る」ということは、情報を得る、ということに他なりません。
それには大まかに言って、①言語的な情報を得る②身体的経験によって情報を得るの二種類があります。
本などを読んで物事の情報を得ることが①の知る、練習であったり試験であったりそういった行動によって経験をして得る情報が②となります。
「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」をさとりの内容として、①や②でその情報を得てさとりをひらくことが可能なのでしょうか?
私はそうではないと思います。
お釈迦さまは後に「三十七道品」を説かれます(仏教におけるさとりをひらくための実践法)。膨大な量なので全てを説明することはさし控えますが、その内容を見れば「さとりをひらく=さとりの内容を知れば可能」ということではないことがわかります。

また、そこから考えてみますと、どうやら「さとり」は「情報」というものではないであろう、ということになるのではないでしょうか?
「縁起の法」(または十二支縁起説)にしろ、「四諦説」(仏教における4つの真理)にしろ、それが言語化された情報として我々は知るのです。 
情報を知ることがさとりをひらくことではなく、「三十七道品」のような実践方法を行うことによってさとりを目指すのが仏教の基本理念となるのですが、そこから考えると「さとり」というものはやはり言語化できない状態に到達したと言えるのではないでしょうか?
では、「全ての存在は諸行無常で諸法無我である」が「さとりに到達する真理」であれば、それは一体何なのでしょうか?

続きます・・・


by hechimayakushi | 2013-11-17 02:19 | ことば | Trackback | Comments(0)


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