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へちま薬師日誌

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2014年 06月 01日

6月のことば

「時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし況や近来をや」法然上人語法語『一紙小消息』より

5月は忙しくてお休みしてしまいましたm(__)m

前回(4月)は阿弥陀仏・阿弥陀如来の救い、ということを少し書きました。
そして、その救いは私達に確約をもたらすものだと書きました。
確約とは?
私達は必ずいつか死を迎えます。
それを逃れる術はありません。
どれだけ科学技術が進んだとしても、どれだけ医療が進歩しても、それだけは逃れられない事実として存在します。
最近ではIPS細胞であったりクローン技術が進んだりしていますが、おそらくは死というものを克服する事は人間、生物には不可能なことだと思われます。
不可避ゆえに人は死を恐れます。
死がまったく怖くないのであれば、健康に気を使うこともなく生きる方も多くなるのではないでしょうか?
漠然たる死への恐怖感が健康への執着を生み出し、それが科学や医療の進歩をもたらしていると言えなくありません。

死の恐怖を細かく見ていくと、死に至る道のりが怖い、また死という未知の領域が怖い、などになるでしょう。
死に至る道のりは人の縁や業に依るので千差万別となり、恐怖に関しては何とも言いようがありません。
生まれつき健康体で病気知らずな方は長寿を全うし、いわゆる「ぽっくり」と往生されたり、徐々に肉体の機能が停止してゆき穏やかな往生を迎えられるかもしれませんし、交通事故・戦争・飢餓などで往生される方もいます。
誰しもが共通する恐怖、それは死が未知であるということになるのではないでしょうか?
死を何であるか体得する術はありません。
死を体得する時点で肉体の機能が停止し、精神活動も停止してしまいますので、観測し記録することができなくなるからです。
臨死体験という言葉がありますが、おそらくは完全なる死とはまったく別物ではないでしょうか?
やはり完全なる死は誰にとっても初めての体験になり、そして一度きりの体験となるでしょう。
それはやはり全ての人にとって死は未知である、となります。

未知なるものへの恐怖、が死の怖さとするならば、なぜ未知なる死が怖いのか?
人は死という現象を否定することはまずありません。
しかしそれは体験した事のない事であり、何であるのかを理解する術がありません。
ただ肉体の機能が停止し、精神活動が停止するだけの事と仮定しても、それがどのような状態なのかは誰にもわからないからです。
苦しいのか、辛いのか、痛いのか、安楽なのか、それともまったく違う何かなのか。
そして、死を迎えた私達はどうなるのか?
観測が停止したら現象も停止する、とするならば、恐怖心も同時に停止するはずですが、そう思ったとしてもやはり怖いものは怖い。
死の恐怖を独力で克服された方もいるでしょうが、やはりそれは特殊な例としか言いようがないと思われます。
死ぬとは何か?どうなるのか?
そこには「死後の世界」が必ずついて回ります。
人はどこかで「死後の世界」=肉体と精神が停止しても何かしら「ある」、私のコアとなるもの、魂なり何なりがあり続けると思うようにできています。
そしてそれは地獄なり輪廻なりの思想がついてきます。
ですのでお釈迦様は「無我」に至れば死を克服・超越すると仰られたのです。
「私」というものが解体されてしまえば地獄へ堕ちる・輪廻する主体としての「私」がなくなるからです。
ただ、その境地には人は至れません。
法然上人のお言葉にあるように「末法」(お釈迦様の入滅後、さとり等がなくなり教えだけ残っている状態)の時代ですので、私達はさとりには至れないからです。

ここで阿弥陀仏の救い、確約というものに戻ります。
阿弥陀仏は全ての衆生(生きとし生ける全ての存在)を救いとり極楽浄土へ往生させるという誓いを成就されて仏となれた仏です。
私達は全て救いとられる確約があります。
それを確信するに至ると現世での往生となり即便往生と言います。
死に至った後に救われることを当得往生と言います。
往生には二種あるのです。
死後の往生は一体何であるのか?
それは死に至ればわかること、とも言えますが、それがどうなのかが私達の知りたいところでもあります。

死によって肉体も精神も停止してしまうと、「私」を構成する要素・縁が消滅します。
ですので死は「私」がなくなる、と言えます。
では何が往生するのか?
まず前提として「仏教には真諦・俗諦の二諦があり、真諦は仏のさとりそのもの・俗諦はそれを人々にわかるようにされたもの」という二諦説を考えなくてはなりません。
次にお釈迦様の入滅の際に「完全なる涅槃に入る」という言葉を残されたことを思い返さなくてはなりません。
そして往生する先の極楽浄土とは何か?

私達は仏のさとりをそのまま直接理解し体得することはできません。
ですので言語なり何なりを媒介し理解に近づこうとします。
お釈迦様や阿弥陀仏や極楽浄土と言った言語はやはり俗諦なのです。
それそのままさとりを示すことはできません。
お釈迦様が「完全なる涅槃に入る」言われたのはどういうことか?
お釈迦様は全ての物事・事象をすべからく正しく見ることができました(正見)
死も例外ではなく、お釈迦様にとっての死は完全なる涅槃=さとりの完成であったことになります。
お釈迦様の説かれた阿弥陀仏と極楽浄土は本来的にはいずれも三界を離れたものです。
肉体・精神・欲望その他もろもろのものから離れた存在、私達には認知不可能なものです。
それはつまり完全に無我である状態であり、法=さとりそのものであると言えます。
完全なる涅槃も阿弥陀仏も極楽浄土も私達には認知不可能な領域のものです。
つまり真諦となりますし、=さとりとなります。
阿弥陀仏のおわします極楽浄土は物として存在するのではなく、俗諦として言語なり何なりで私達が認知している状態なのです。
無論、阿弥陀仏も同じです。
本来的な存在(その言葉適当かはわかりませんが)としては認知不可能な領域であり、真諦であるので、私達はそれを完全に「知る」には死を迎えるしかありません。
しかし、それは真諦=さとりであることは私達にも認知可能です。
つまり、お釈迦様にとって死は完全なるさとりの完成であったと言えるのではないでしょうか?
また、お釈迦様の説かれた極楽往生とは完全なるさとりの世界への往生と言えるのではないでしょうか?

つづく


by hechimayakushi | 2014-06-01 21:38 | ことば | Trackback | Comments(0)


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