2014年 09月 13日
「これ経行はこれを喩ふるに鏡のごとし」善導大師『観経疏』序分義より 先月はパソコンが壊れてしまい、更新できませんでした。 今月のことばですが、法然上人が三回読まれて回心されることになった善導大師の観経疏という書物、その序分義という部分よりの抜粋です。 経行とはお釈迦様のことば、つまりお経です。 さらに言えば仏の教え、仏教となります。 それは鏡のようなものであるという意味です。 前回に書きました「自分というものの姿を受け入れる」とはどういうことか? または、どのようにすればできるのか? その答えがこの言葉ではないでしょうか? 私達は仏にはなれない存在である、と繰り返し書いてきました。 その状態を凡夫と言い、それを受けいれることが、自分というものを受け入れることとなります。 その為の手段が必要です。 「仏道をならふというは、自己をならふなり」とは道元禅師のことばですが、仏教とは、仏の教えとは自分自身を移す鏡となります。 私達がこの世で自分の力で仏となれない存在だと知るには、仏が何であるのかを知らなければなりません。 仏になれない自分とは何かを知るには、自分とは何かを知らなければなりません。 それを知るために、仏の教え、お経があるのだと言えます。 お経は仏のことばですが、そこには私達そのもの姿も記されています。 お経は遠い世界の遠いことばではありません。 自分自身そのものが、そこにあるのです。 つづく
by hechimayakushi
| 2014-09-13 00:08
| ことば
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