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へちま薬師日誌

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2015年 05月 13日

私説法然伝4

『私説法然伝』(4) 勢至丸①
 先月号では法然上人の生まれた当時の時代背景について簡単に説明いたしました。
 まとめるならば、政治的に院政期末のはじまりで、武士階級(職業軍人)の勢力が力を伸ばしていた時代となります。
 法然上人もまた、新興勢力たる武士階級の家庭で生まれ育つことになりました。
 法然上人は勢至(せいし)丸(まる)と名付けられて育ちます。勢至丸の勢至とは、勢至菩薩のことでしょう。阿弥陀如来の右脇侍(みぎわきじ)(本尊を補佐する役目)として知られています。智慧(ちえ)を司り、人々を智慧の光で照らし救済するはたらきを持つ菩薩です。
 なぜその名を名付けられたのかは不明ですが、両親共に信仰心が厚かったからかもしれませんし、勢至菩薩がごとく育って欲しいとの願いからかもしれません。
 『法然上人行状絵図』によりますと、法然上人こと勢至丸は西の壁に向かって座る癖があったとあり、それは天台大師智顗(ちぎ)に同じだとのことです。『法然上人行状絵図』の編纂者は天台僧舜昌(しゅんしょう)法印ですので、そのような記述になったのかもしれません。
 保延(ほうえん)七年(一一四一)春、法然上人こと勢至丸が九歳になられる頃。漆間時国一族、特に法然上人の人生にとって重大な事件が発生します。
 
【法然上人の育った久米郡稲岡庄は堀河院(堀河天皇)に寄進された荘園であった。荘園の預所(あずかりどころ)(管理者)であったのが、堀河院に仕えていた明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)の父の伯耆守(ほうきのかみ)源長明で、定明は父の職を受け継いで預所として務めていた。
 荘園の支配関係は複雑化していた当時、荘園の管理者たる預所と、在地豪族たる押領師とは衝突が絶えないのが通例であった。
 法然上人の父である漆間時国と、預所である明石源内武者定明もまた、衝突することになる。
 『法然上人行状絵図』には、漆間時国は明石源内武者定明を見下し、政治に従わず、面会も拒んでいたとある。 
 両者の関係がこじれにこじれ、保延七年の春に明石源内武者定明が漆間時国の館に夜襲を仕掛けたと伝えられる。事実ならば夜襲と言うよりも暗殺に近いものであろう。
漆間時国は夜襲により負傷し、その傷が元で亡くなることになる。
 夜襲の際に逃げ隠れていた法然上人こと勢至丸が小型の弓である小矢にて定明の眉間を撃ったとされている。このことが評判となり小矢(こや)児(ちご)と言われたともある。
 伝記等では定明は逃げ帰えり、報復を恐れて逐電したとあるが、目的は果たしている。しかし、これらの事柄が事実であるならば、伝記にもあるように、漆間家側の報復は恐れていたであろうと思われる。
 左大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが)卿の日記『台記(たいき)』に定明が登場する。永治(えいじ)元年(一一四一)十二月権大納言藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)より滝口の武者(天皇の護衛の武士)として定明を登用して欲しいと要請されたとの記述がある。これは何を指し示しているのだろうか?】


by hechimayakushi | 2015-05-13 12:01 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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