2015年 06月 08日
『私説法然伝』(5)勢至丸2 先月号では法然上人の人生のターニングポイントとなる「明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)による漆間時国(うるまときくに)夜襲事件」について書きました。今回はその続きとなります。 「左大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが)卿の日記『台記(たいき)』に定明が登場する。永治(えいじ)元年(一一四一)十二月権大納言藤原宗輔ふじわらのむねすけ)より滝口の武者(天皇の護衛の武士)として定明を登用して欲しいと要請されたとの記述がある。これは何を指し示しているのだろうか?」と前回に書きました。 これは夜襲事件と同じ年の暮れのことです。定明は報復を恐れて逃げ出したと伝えられていますが、そのまま預所としての職務を続けていたのでしょうか?それとも美作国から逃げ出して京都へ上ったのでしょうか?官職にある者への夜襲という私闘行為を行った者が「滝口の武士」という職につけるものでしょうか?この『台記』の記述は実に様々な思案の材料となるものです。 『法然上人行状絵図』によればこの夜襲の時に受けた傷が元で時国は命を落とします。 今際の際(いまわのきわ)に時国は勢至丸こと法然上人に遺言を残したと多くの伝記に書き記されています。 『法然上人行状絵図』によれば・・・ 1敵(定明)を恨む事なかれ 2この夜襲により命を落とすのは宿業(前世の因縁)である 3仇討(あだうち)ちをするな・必ずまた自らに返ってくる 4出家し私(時国)の菩提を弔ってほしい・そして解脱(げだつ)(さとり)してくれ の四点を言い残したとあり、そして西に向かい合掌して佛を念じて息絶えたとあります。 この遺言の記述に関しては各伝記ごとに特色がありますが、重要なことは時国を襲撃した定明を恨まず、仇討ちをするな、と言い残した点でしょう。武士としては異例の遺言であると言えます。 結果的に法然上人は「出家」されることになるのですが、いきなり「出家」されたのではなく、法然上人九歳から数年間の時を経ての「出家」となります。 【明石源内武者定明による漆間時国夜襲の後、時国は遺言を残しこの世を去る。 『法然上人行状絵図』によれば残された勢至丸こと法然上人は母方の叔父である智鏡房観覚(ちきょうぼうかんがく)(天台宗比叡山延暦寺・法相宗興福寺で学んだ僧または真言律中川流祖実範(じっぱん)より真言宗学を学んだ僧)のいる菩提寺(高円(たかまど)の菩提寺・岡山県勝田郡奈義町)に引き取られ、そこで仏教の基礎的な学問を学び、生活していたとある。観覚は法然上人の非凡な才能を見抜き一刻も早く比叡山延暦寺で学ぶべきと考えたとある。観覚は一通の手紙を延暦寺西塔の北谷の持宝房源光に送る。「大聖文殊(だいしょうもんじゅ)菩薩像一体を進上す」と書いて。】
by hechimayakushi
| 2015-06-08 13:15
| 私説法然伝
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