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へちま薬師日誌

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2015年 07月 03日

私説法然伝6

『私説法然伝』(6)出家への道①
 
 先月号では、父を失った勢至丸を母方の叔父の僧侶である観覚(かんがく)が引き取り、その才能を見抜き、比叡山延暦寺の僧侶である持宝房源光(じほうぼうげんこう)に「大聖文殊菩薩像(だいしょうもんじゅぼさつぞう)一体を進上す」という一文を添えた手紙を送った、というところまで書きました。
 この一文の意味は「大聖文殊菩薩像一体」の指し示すところが大事です。文殊菩薩とは智慧の菩薩です。これは勢至丸のことを指し示しています。非常に頭がよいということを表しています。「進上す」、つまり持宝房源光に預けるということです。
 この「持宝房源光」という僧侶は何者なのでしょうか?生没年不詳で詳細も不詳ですが、比叡山延暦寺の西塔(さいとう)の北谷というところにいた僧侶とまでわかっています。
 比叡山延暦寺というのは、私たちが通常想像するお寺とは構造が異なり、比叡山という山の中にいくつものお堂があり、それら全体で延暦寺という一つのお寺となるのです。東塔(とうとう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)という三つの区域に大きく分けられ、そこに十六の谷があり、さらに二つの別所と呼ばれる地区があります。源光は西塔という地区の北谷という谷にいた僧侶となります。
 勢至丸が比叡山延暦寺にいつ登ったのか?また、登ってすぐ出家したのか?そもそも比叡山延暦寺に「登る」ということはどういうことだったのか?

【叔父の観覚の勧めにより比叡山延暦寺へ登ることになった勢至丸は、本人もまたその道を望んでいたと伝えられる。しかしそれは母との別れを意味していた。母である秦氏の君は勢至丸との別れに際して「形見とて はかなき親の留めてし この別れさへまたいかにせん」とその悲しみの心を歌にしたという。母に別れを告げ、いよいよ比叡山延暦寺に向けて出発する。
 ただし、それが何年のことなのか?二つの説がある。
 一つが天養二年(一一四五年)勢至丸十三歳説(『伝法絵(でんぽうえ)』『琳阿本(りんあぼん)』)、また一つが久安三年(一一四七年)勢至丸十五歳説(『法然上人行状絵図』等)である。】
 
ここで注意しなければならないことが一つあります。法然上人の伝記はいくつかありますが、各伝記の共通点となるのが「十五歳受戒(じゅかい)説」です。
 この「受戒」という言葉、これはつまり「出家」という意味となります。同じく「出家」を意味する言葉で「得度(とくど)」という言葉もあります。これは「剃髪し仏門に入る儀式」のことです。法然上人の「受戒」にはもちろん「得度」も含まれています。


by hechimayakushi | 2015-07-03 11:44 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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