2016年 09月 09日
『私説法然伝』(20)法然誕生④ 先月号では法然上人が比叡山を下りて嵯峨(さが)の清涼寺(せいりょうじ)にて参籠の後、求法の旅へ出られるところまで書きました。 若き日の法然上人にとって、この清涼寺での体験、そして求法(ぐほう)の旅の体験によって得られたものは大きかったことでしょう。 旅というものは人にとって特別な体験だと言えます。法然上人にとってもまたそうであったことでしょう。 【法然上人は京の都を離れ、奈良へと向かったという。奈良は京の都、つまり平安京以前の都があった場所である。日本において仏教の公式な始まりの地である。そこには南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる奈良時代に成立した諸派があった。法然上人は南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)・興福寺(こうふくじ)の蔵俊(ぞうしゅん)という僧侶を訪ねたのである。蔵俊は法然上人の知識と理解の深さに驚き、賞賛した。だがそれは法然上人が求めたかったものではなかった。法然上人はただひたすら「求法」であったのだ。奈良を離れ再び京の都へ戻り、山科の三論宗の学僧であった寛雅(かんが)を訪ね、さらに御室仁和寺の慶雅(けいが)を訪ねた。しかし、法然上人の求めた答えはそこにはなかったのである。法然上人の求めるもの、「求法」とは一体何であるのか?】 法然上人は日本に伝わっていたありとあらゆる仏教を学ばれていました。 当然のことながら比叡山延暦寺の根本である天台法華宗の教義だけでなく、ありとあらゆる仏教思想に及んだものであります。 当時の感覚としては、おそらく自分が属する宗派・宗旨について学ぶ、それで一生を終えることが普通であったことでしょう。今でこそ仏教の勉強をしようと思えば何でも手に入ります。本やインターネットでいくらでも勉強できます。しかし、手に入る情報量が圧倒的に違う時代のことです。一つの事を学ぶ為に手に入る情報量が今と比べると圧倒的に少なかったことでしょう。そんな状況において法然上人の知識量は驚愕のものであったと思われます。しかし知識があっても手に入らないものが法然上人にはあったのです。その答えを求めて旅に出られたのですが、法然上人の求めた答えはどこにもありませんでした。
by hechimayakushi
| 2016-09-09 23:00
| 私説法然伝
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