へちま薬師日誌

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2018年 04月 14日

私説法然伝39

『私説法然伝』(39)王家と平家の時代④

 先月号では平安時代末期における各地方の勢力の動きなどに関して書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【平忠盛は白河帝の御世から「北面(ほくめん)の武士」として仕え、白河帝からの信任厚い「院の近臣(きんしん)」と呼ばれる軍事貴族であった。藤原頼長卿も認めるほどの有能な官吏でもあり、白河帝の御世から鳥羽帝の御世に移り変わっても、そのまま院の近臣として仕えていた。天承(てんしょう)二年(一一三二年)鳥羽帝の為に得長寿院(とくちょうじゅいん)千体観音堂(三十三間堂)の造営の際に、千体観音像を寄進した功により殿上人(てんじょうびと)(昇殿を許される身分)となった。鳥羽帝が寵愛した美福門院得子の従兄弟であり院の近臣の筆頭であった藤原家成卿の従兄弟が忠盛の妻の宗子であった関係で、家成卿と親密な関係を築いていく。長承二年(一一三三年)肥前国の神崎荘の荘園の預所(あずかりどころ)(管理者)であった忠盛は、宋船との交易を鳥羽帝の権勢を背景に太宰府を排除して独自に行い、保延元年(一一三五年)には瀬戸内海の海賊の追討を成功させ、降伏した海賊を「家人(かじん)」として勢力下に組みこむなど着実に「西方」での勢力を伸ばしていった。それは西に目を向けていた鳥羽帝の思惑もあり、宋との交易の増加もあり、忠盛個人の力だけでなく伊勢平氏全体の力の増大化につながった。忠盛の残した力を引き継ぎ伊勢平氏の棟梁となったのが忠盛の子の清盛(きよもり)である。清盛には二つの目標があった。父の忠盛は「武士」としては異例の殿上人にまでなったが、公卿(くぎょう)(政治を司る太政官の最高幹部)となる一歩手前で亡くなってしまう。一説には忠盛は美作守などを歴任した後に播磨守という受領(ずりょう)として最高位まで昇り、公卿への昇進は間違いなしと言われていたが、清盛の郎党(配下の者)が祇園社の神人と小競り合いを起こした事で祇園社の本寺である比叡山延暦寺から忠盛・清盛親子の配流を求める訴えが起こったために公卿への昇進が叶わなかったとされる。
清盛は父の悲願とも言えた「公卿」を目指すことが一つの目標であった。そしてもう一つの目標は、父忠盛から引き継いだ宋との交易を通じて清盛が行うことになる経済の改革・革命である。】

軍事貴族、つまり「武士」と呼ばれた伊勢平氏は「西方」つまり京都から瀬戸内海を通り九州そして宋へとつながる「海の道」を押さえることでその勢力を拡大することに成功しました。清盛はその力を使い一族の悲願、または「武士」としての悲願を成就することになるのです。

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by hechimayakushi | 2018-04-14 23:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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