へちま薬師日誌

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2018年 06月 14日

私説法然伝40

『私説法然伝』(40)王家と平家の時代⑤

 先月号では平忠盛とその子の清盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【平清盛は父・忠盛の築き上げた基盤を受け継ぎ、軍人としても政治家としてもまさに「日本一」に相応しい功績を上げる事になるが、その人生は順風満帆というわけではなかった。実母は諸説あるが、通説となっているのは白河帝に仕えた女房で、清盛が幼い頃に死亡していると思われる。忠盛の正室は院の近臣・藤原宗兼(ふじはらのむねかね)の娘の宗子であり、宗子の子である家盛(いえもり)がいた。清盛が平氏一門の棟梁となれる可能性は低かったらしい。しかしながら、幼い頃の清盛は白河帝の寵愛を受けた祇園女御(ぎおんにょうご)の庇護下で育てられている事や、当時から白河帝の落胤(らくいん)ではないかという説もあったらしく、それらの影響があったのかは不明であるが、異母弟の家盛が若くして亡くなった事もあって清盛が伊勢平氏一門の棟梁となった。
清盛の人生を大きく変える事になったのが、平治の乱である。後白河帝と信西入道による保元の新政に不可欠となったのが新たな安全保障体制である。すなわち京の都の治安維持と荘園の統制ならびに各勢力への牽制と統制の必要性に迫られていたのである。その為には北面の武士の最大勢力であった平氏一門の軍事力に頼らざるおえなかった。信西入道は清盛との結びつきを強め、厚遇する。平氏一門はこの時点で既に五カ国の受領となっており、その勢力は急速に拡大していった。後白河帝の政権は信西入道を中心とした政治体制であり、その政治体制の権力の保持の要となったのが平氏一門の軍事力であったのである。そこに新たな政治勢力が登場する。鳥羽帝の寵愛を受け、鳥羽帝から莫大な荘園を相続して当時の最大勢力でもあった美福門院得子(びふくもんいんなりこ)の勢力である。美福門院は信西入道との「佛と佛との評定」によって美福門院の養子である東宮・守仁親王を擁立し、二条天皇として即位させる。もともと後白河天皇即位は守仁親王の「中継ぎ」としての手段であり、信西入道としても美福門院の要求を断る事はできなかった為である。こうして後白河天皇は退位し後白河上皇となり、後白河院政派と二条親政派とが分かれ対立構造が出来上がってしまったのである。その対立の中で清盛は非常に難しい舵取りを迫られるのであった。】

後白河帝による保元の新政は信西入道と平氏一門による協力体制によって進められてきましたが、美福門院派=二条親政派の登場によって清盛以下平氏一門は難しい立場となっていくのです。

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by hechimayakushi | 2018-06-14 14:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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