2018年 09月 11日
『私説法然伝』(43)王家と平家の時代⑧ 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の顛末について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【その時、平清盛の気持ちというものはどうであったろうか?もはや「藤原摂関家」の権勢は失墜し、「治天の君」も力のある近臣を失い、平家一門に頼るしか政権運営が行えない事は明白であった。永暦(えいれき)元年(一一六〇年)にはついに参議に昇進し「武家」としてはじめて公卿となる。つまり「政権」への参加が始まったのである。平氏一門は重要な役職を握り、知行国も増加していった。二条帝の崩御により後白河院政が確立されると平清盛の重要性と権勢はますます高まった。永万(えいまん)二年(一一六六年)に清盛の娘盛子は夫の関白基実(もとざね)卿の死去にともない広大な遺領を引き継ぐ、これにより「平家」の支配地域は日本随一となった。 仁安(にんあん)二年(一一六七年)清盛は従一位太政大臣となった。後白河帝も手出しできないほどの力を持った平家であるが、後白河帝は平清盛の子の重盛を院の近臣として重用し、全国の軍事警察権を与えることによってパワーバランスを保つ事にした。この頃から清盛は「平家納経」に代表されるように、瀬戸内海からの海上交通権の掌握に力を入れ始める。仁安三年(一一六八年)後白河帝と清盛の義理の妹である滋子との子である高倉天皇が皇位につくと清盛は出家をする。京都を離れ摂津国福原の山荘へ移り住み大輪田泊(おおわだのとまり)の修築に力を入れる。これらは全て宋との交易を目指したものである。宋との交易によって莫大な富を日本にもたらし、その富は九州から瀬戸内海の各領主にも利益をもたらした。この構図を背景に清盛は西日本を完全に掌握する事を目指したのである。宋との交易において清盛が行った最も重要な事は「宋銭」の輸入である。宋銭という他国の通過を輸入し、自国の主要通貨としてしまったのである。清盛は宋との交易を通じて西日本の掌握を目指すと共に、日本の経済革命と経済活動の全ての掌握を目指したのである。】 ついに平清盛は念願の「公卿」となると共に軍事力を背景として京の都の掌握、そして太政大臣という事実上国家のトップとなりました。そして宋との交易によって莫大な富を蓄え、宋銭の輸入という前代未聞の政策を打ち出します。物々交換に近い経済活動が主流であった外国との交易に経済革命をもたらし、経済活動を活発化させたのです。貨幣を蓄えることによって経済成長が起こり、経済規模を拡大させました。日本史だけでなく世界史的にも稀な経済改革を行ったのです。
by hechimayakushi
| 2018-09-11 20:20
| 私説法然伝
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