へちま薬師日誌

toujyuji.exblog.jp
ブログトップ
2018年 09月 11日

私説法然伝44

『私説法然伝』(44)王家と平家の時代⑨

 先月号では平清盛が政権の頂点となり経済改革を通じて「日本」の掌握を狙ったことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【承安(じょうあん)二年(一一七二年)清盛は娘徳子を、後白河帝と滋子(しげこ)との子である高倉天皇の中宮とする事に成功する。これが事実上の後白河院政下における平清盛の全盛とも言える。この後白河帝と平清盛の両輪による政権全盛をさらに支えた両輪が、清盛の子の平重盛卿と義理の弟であった平時忠卿であった。重盛は保元の乱・平治の乱を通して父清盛を支え武功を立てた。二条帝親政下では二条帝からの絶大な信頼を受け若くして参議となる。後白河帝との関係も良好で、同じく参議として国政に関わり、清盛の後継者として軍事警察権を与えられるなど、まさに順風満帆な出世であったが、後白河帝からしたら何をするかわからない清盛よりも、数々の武功を上げた優秀な軍人でありながらも実直かつ温和な性格の重盛の方が御し易いという判断も含まれていたものと思われる。しかし歴史書『愚管抄』を書き残した慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)ですら重盛を「イミジク心ウルワシク」と書き残しているほどの人格者であり、その人柄が政権運営に大きく影響した事は間違いない。平時忠は清盛の継室の時子の異母弟であり、失脚しながらも再び政権中枢に返り咲くほどの「しぶとい」実務官僚にして政治家であった。実務官僚の中でも重要な役職である蔵人(くろうど)・検非違使(けびいし)・弁官(べんかん)の三職を兼任するなど(三事兼帯)、その実務能力は実際に優秀であった。特に検非違使という警察官僚としては特に優秀で、平清盛政権を支え続ける原動力の一つであった。
 この両名をはじめとして優秀な軍人・官僚・政治家が政権を支えるのであるが、院政を開始した後白河帝と、位人臣(くらいじんしん)を極めた平相国(へいしょうこく)清盛入道の経済改革等の独自路線、さらに摂関家や寺社勢力を巻き込んだ対立が始まるのが、承安二年という年であった。】

後白河帝と清盛という二大巨頭による政権運営は順調そうに見えましたが、日本史上初の武家出身者が太政大臣となったこと、前代未聞の試みとも言える一大経済改革と国際化路線、「平家」による大多数の知行国の独占や莫大な荘園の保有はパワーバランスの偏りを招きました。それが対立を生み出し、争いとなったのです。その争いが時代をさらに変革へと動かしていきました。

[PR]

by hechimayakushi | 2018-09-11 20:22 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://toujyuji.exblog.jp/tb/238752752
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< お知らせ      私説法然伝43 >>