へちま薬師日誌

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2018年 11月 13日

私説法然伝46

『私説法然伝』(46)回心回天①

 先月号では日宋貿易の始まりと影響について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【新しい時代へと突入したのだ、と。その時代に生きていた人々がはっきり認識して生きていたかどうかは定かではない。今現代でもそうである。ただし、どの時代でも変革の時代には人々の思考というものはその影響を受ける事が多いのは事実であると言える。平安時代とは後の時代の人間が命名した時代の名前である。その当時の人々がそう認識していたわけではない。平安時代から鎌倉時代へと移り変わったというのも、後の時代の人間がそう認識しているだけである。当時の人々がそう感じたかどうかは定かではない。しかし確実に「世の流れ」が変化した事は当時の人々でも感じ取らざる負えなかったのではないだろうか?かつて栄華を誇った藤原摂関家の権勢も衰え、「治天の君」として絶大な権力を振るった「王家」も今や平家一門の力を頼らなければ政治体制を維持することが困難となっている。世の流れは留まることを知らずして、いつ何時変わるかもしれないものだと、人々は実感していたに違いない。それは法然上人が身を置いている比叡山延暦寺でもそうである。伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)開山以来、時代の中で、数多の僧侶が流れを変化させてきた。その中に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の確立した浄土佛教がある。浄土佛教という流れに出会った法然上人はこれから一つの大きな流れを生み出されることになる。承安二年(一一七二年)平清盛の築いた時代が全盛を迎えつつある頃、法然上人は四十歳となっていた。「念佛」という道を模索され続けていた、と推察される。『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって示された善導大師(ぜんどうたいし)の『観経疏(かんぎょうしょ)』と向き合う日々であったのであろう。念佛に出会われてから早数年、ひたすら思索と実践を繰り返されていたと思われる。「念佛」こそが法然上人が求められていた道であるには違いない。しかし「確信」であったり、「納得」であったり、法然上人の思索の中で何か合点がいかない点があったのは間違いない。それは「誰もが必ず救われる道」ではなかったからだろうか。ただ念佛、というのは法然上人ならば可能であっても、誰しもが可能な道ではない。南無阿弥陀佛と称えるだけの称名念佛でも、誰もができるわけではない。そこに法然上人がたどり着くべき場所の「ヒント」があった。】

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by hechimayakushi | 2018-11-13 11:35 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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