へちま薬師日誌

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2018年 12月 13日

私説法然伝47

『私説法然伝』(47)回心回天②

 先月号では法然上人の目指すものについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が思い悩まれていたのは当然のことであった。法然上人にとって、または法然上人以前の多くの人の認識では、佛教とは佛道であり、佛道とは修道であり、修道とは「できる」か「できない」かである。法然上人は「できない」と認識されていた。そして「できる」ためにはどうしたらよいのか?という思いで様々な方法や考え方を模索されていたわけである。その中で出会ったのが「念佛」であったが、これもまた「できる」か「できない」かという問題が発生してしまう。法然上人以前にインドに始まり中国、そして日本で多くの「念佛」に関する考えが生まれ、発展してきた。法然上人はそれらの考え方を学ばれ、実践されてきた中で出会ったいずれも「できる」か「できない」かという問題への直接的な解決策は明示されていなかった。そして法然上人は善導大師の書かれた『観経疏』に出会われた。
 この善導大師とはどのような僧侶であったのか?善導大師は隋の時代六一三年の生まれで、幼くして出家し、般舟三昧行(はんじゅざんまいぎょう)という精神統一による観想の念仏行をされていたと伝えれる。後に道綽禅師(どうしゃくぜんじ)に出会われ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の講説を聞き、道綽禅師の下で本願念佛の御教えに目覚められたという。善導大師は「できる」「できない」という念佛から、本願念佛という他力(自分の力に依らない)の念佛に目覚められた方であった。その善導大師が書かれた著書の一つが『観経疏』である。法然上人は『観経疏』を読み、悩まれたのだろう。その悩みを作ったのは恐らく「分別(ふんべつ)」というところであったのではないだろうか?私達は常に「分別」をしている。「分別」とは私達が無意識でも意識的にも行うことである。天気が良くて青空が広がっている、それを観た私達は「良い天気で空が青い」と「分別」する。「分別」してから今の天気は良くて空が青いと私達は認識する。
しかし、その日の空は私達が「分別」する前に既に天気が良くて青かった、分別しなくても天気が良ければ空も青いのである。その「事実」は意識して思考しないと気が付かないのが人間というものである。
本願念佛というものの本質もまた同じ事だと言えるのである。】


by hechimayakushi | 2018-12-13 00:07 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
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