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へちま薬師日誌

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2019年 08月 05日

私説法然伝

『私説法然伝』(55)陰謀術数④

 先月号では「鹿ヶ谷の陰謀」の後の動きについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【治承三年十一月十四日、清盛は数千騎を率いて福原から京の都へ「突入」した。つまり事実上の軍事クーデターである。反平家であった関白松殿基房(まつどのもとふさ)卿は解任され、近衛基実の子の基通を内大臣・関白・氏の長者とした。この強硬策に白河帝は何も対抗することは出来なかった。白河帝は本拠地の法住寺殿を占拠され、鳥羽殿へ幽閉される事になる。政治権力は親平家派で固められた。「日本秋津島(ひのもとあきつしま)は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と『平家物語』に書かれた通り、平家政権の絶頂期を迎えたとも言える状況である。しかし、これが反平家運動に火をつける結果になった。
 治承四年(一一八〇年)二月に高倉帝はわずか三歳の皇太子に譲位された。安徳天皇の誕生である。これで天皇の外祖父となった清盛は厳島神社への安徳天皇の行幸を強行する。天皇の行幸始め・始めての社参は石清水八幡宮・賀茂神社・春日神社であるという「慣習」を無視した清盛への比叡山延暦寺をはじめとする寺社勢力の反発は大きかった。こうした寺社勢力による反発と介入を避け、さらに今後の西国を中心とした交易を基軸とした「政権」を作るために清盛は自らが作る福原への遷都を断行する。その状況下で立ち上がったのが後白河帝の弟の以仁王(もちひとおう)である。四月九日平氏追悼の命を各地の武士に下したのである。この行為を後白河帝は黙認する。しかし五月十五日に平家政権によって計画が察知される。以仁王は源頼政らの軍勢を従えて興福寺へ向かう途中の宇治で平家側の軍勢と交戦し、敗北する。以仁王の「クーデター」は失敗に終わった。だが以仁王の挙兵が東国の武士団の挙兵を促すことになった。八月に伊豆に配流されていた源頼朝の挙兵に続き、甲斐源氏武田氏や頼朝の従兄弟の信濃源氏義仲などが挙兵する。一旦は平家側の軍勢に敗走した頼朝だが、立て直し十月に鎌倉を本拠地とした。これを東国における反平家政権のための「政権」の始まりとも言える。反平家活動は九州など各地で相次いだ。平家側は頼朝打倒の為に軍勢を東国へと差し向けるが、富士川の戦いで敗退する。頼朝ら東国の軍勢は敗走する平家の軍勢を追撃はしなかった。関東における自分たちの「政権」の基盤強化のために鎌倉へと帰還したのである。鎌倉に戻った頼朝は武士団を統括する「侍所(さむらいどころ)」を設置。翌年に元号が養和となったが、頼朝はこれを使わなかった。これは頼朝を首魁とする東国武士団による鎌倉軍事政権の樹立とも言えることであった。】


by hechimayakushi | 2019-08-05 21:46 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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