2023年 07月 18日
『私説法然伝』(97)助けてほしい⑫ 先月号では法然上人に帰依した甘糟太郎忠綱について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【甘糟太郎忠綱以外にも関東の御家人の中に法然上人と本願念佛に帰依した者がいた。津戸三郎為守(つのとのさぶろうためもり)である。源頼朝の東大寺落慶法要参列に伴って上洛した津戸三郎為守は法然上人に出会い弟子となった。そして関東に本願念佛の教えを広めることになったのである。三代将軍実朝の悲劇的な暗殺以後に彼は出家する。そして念佛者として実朝の菩提を弔い、本願念佛の中で生きた。 当時の新興勢力または時代の新たな主役であった武家・武士に法然上人の本願念佛の教えは広がっていったのである。それは彼らが求める「助け」が本願念佛にあったからである。 もちろん本願念佛の教えは武家・武士だけではなく、ありとあらゆる階層の人々に広まっていくのである。当時一番「死」そのものに近かったのが戦闘集団である武士達であるが、現代では考えられないぐらい「死」そのものが身近であった時代である。誰もが「後生」という死後の不安を抱えて生きていた。そして生きている間の苦しみや不安というものにどうしたら良いのかという答えも求めていた。 当然のことだが、法然上人の弟子や信徒となる人々には、僧侶や貴族や武士以外の様々な階層の人々が多くいた。記録にないからいなかったのではない。記録に残るのは氏名などがはっきりと他の資料などでもわかるような人だから残っているのである。そのことは歴史文献を「逆」に読むことで判明する。例えば慈円僧正の残した第一級資料である『愚管抄(ぐかんしょう)』の法然上人の臨終の様子の記述からもそれがわかる。名前はわからないが様々な人々が法然上人を慕って最後の別れにつめかけたのである。それは法然上人とその話す言葉が多様な人々に受け入れられていたことの証明である。単純に有名だから高僧と評判だからというだけで人々が押しかけるわけではない。人間の心理や心情を含めて「逆算」しなければどんな歴史資料も読み解け無いのである。】 本願念佛とは、佛は一切の差別なく人を救うという働きです。法然上人はその本願念佛を広められたわけです。当然ながら一切の差別なく人々と接し話をされたことでもあります。それは「宗教革命」とも言えることでもありました。
by hechimayakushi
| 2023-07-18 22:58
| 私説法然伝
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