2023年 07月 18日
『私説法然伝』(百一)選択本願念佛集③ 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【法然上人は『選択集』の第三章においてはっきりと書かれている。豊かな者や賢い者や学問のできる者や完璧な僧侶よりも、貧しい者、愚かな者、学問のない者、戒をやぶる者の方が多く、それら全ての人を救うのが他力本願念佛であると。 それは単なる阿弥陀佛の事実であり、本質的に法然上人が何かを「破壊」したかったわけでも「革命」を起こしたかったわけでもない。あくまで佛とは何か、ということが法然上人にとっての一大事であり、その事実が他力本願念佛という真実であったのだ。 『摧邪輪』で法然上人を批判された明恵上人は若い頃に佛になるために自らの右耳を切り落とし、釈尊を目指すために天竺(現インド)への渡航を計画したほどの熱狂的な佛教僧であり、その生涯において持戒と修行の道を追い求めたまさに佛教に生きた僧侶である。明恵上人がなぜ法然上人を批判されたかと言えば、明恵上人は「佛」を追い求められたからである。だが法然上人もまた同時に「佛」を追い求められたからこそ他力本願念佛という真実にたどり着かれたのである。 他力本願念佛とは、佛とは何か?ということでもある。全ての衆生を救われた阿弥陀佛という佛が他力本願念佛なのである。だが明恵上人の追い求めた佛とは、自らが佛になるための道そのものと言っても良い。戒を守り、自らを律し、修行法を追い求める道である。その道を我々の代わりに阿弥陀佛はやってくださった、などと言われたら明恵上人からしたら「おかしい」と思われるのも無理はない話である。明恵上人という方はあくまで現世における自らの「修道」の方であり、同時にそれを行えるだけに飛びぬけた学識もあった。だからこそ法然上人の真意、それは「他力」の真意が許しがたい事に思えたのだろう。「佛」というものの真実が「絶対」であるならば、その対となる「衆生」つまり自分そのものは救われるだけの「凡夫」でしかない構図が許せなかったのかもしれない。】 現代社会まで続く「他力本願念佛」の教え、これはつまり我々西山浄土宗や浄土宗や浄土真宗や時宗などお念佛の教えを守る各宗派に一貫した考えがあります。「汝是凡夫」と釈尊が仰られたように自分自身というものは佛道修行や功徳を積むための善行を行うことができない、今現在は「佛」にはなれない存在であるという事実。同時に、だからこそ阿弥陀佛という「凡夫」救済の修行を必要として佛となった「佛」という事実。この二つの事実を認めるのが我々にとっての「真実」なのです。 自分のちからでは佛になれない、その事実の一点こそが我々にとっての終着点であり出発点となるわけですが、それが認められないという考え方も当然あります。法然上人は他の考え方を否定されたわけではなく、あくまで今の自分は「凡夫」であるという事実が終着点であり出発点でもありました。だからこそ自分が救われることは誰もが救われる道であると確信されたのです。 この「誰もが救われる」という道は、論理的な構造として「誰もが凡夫である」という事実の発見になるのです。誰もが凡夫であるということは、自分が凡夫ではない、凡夫であることから逃れたいという人にとっては不都合な真実でもあったわけです。 以下次号に続く
by hechimayakushi
| 2023-07-18 23:30
| 私説法然伝
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