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へちま薬師日誌

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2023年 09月 16日

私説法然伝103

『私説法然伝』(百三)法然の法難①

 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【『選択集』を著述されるまでの法然上人の状況は、言わば一つの拡大期のようなものであったと言える。養和一年(一一八一年)法然上人四十九歳の年から、建久九年(一一九八年)法然上人六十九歳までの期間である。この期間において様々な人々が法然上人の弟子や支持者、今日で言う「檀信徒」となられたのである。
 法然上人の人生を分けて考えるのなら、お生まれになってから比叡山延暦寺での時代を前半生、承安五年(一一七五年)四十三歳にして他力本願念佛のみ教えを体得され比叡山を下り西山粟生の地にて「浄土宗」の立教開宗をされた年からが後半生となるが、後半生をさらに二つに分けると、四十三歳から建久九年(一一九八年)『選択集』を著されるまでが後半生の前半、または中期と言ってもよいであろう。
 時代はすでに源頼朝によって開かれた東国武家政権の時代であり、依然として平安の都には「王権」つまり後鳥羽帝(ごとばてい)が君臨している時代でもあった。
 『選択集』が生み出された建久九年同年に十九歳であった後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位される。これにより後鳥羽上皇による院政の開始つまり「治天の君」の誕生となる。後鳥羽帝は後白河帝の孫に当たり、壇ノ浦の悲劇である安徳帝の異母弟にあたる。「よろづの道々にあきらけくおはしませ」と『増鏡』に記されるように、文武両道にして行動派の帝であったことは間違いがない。
 建久三年(一一九二年)後白河帝の崩御以後は関白九条兼実卿による「摂関政治」が復活し、源頼朝との良好な関係からも政治的に安定していたが、頼朝の娘の大姫の入内問題、これは九条兼実卿の娘の任子がすでに後鳥羽帝に入内しているところへの「横槍」のようなものであった。
 源頼朝はあからさまに九条兼実卿との関係を打ち切り、代わって台頭したのが久我通親であった。現在の西山浄土宗、つまり西山派の流祖となる善慧房證空上人の義理の父でもあり、有職故実に通じ摂関家の政治家として優秀であったが、朝廷の政治家としては悪いことが出来ない性格で不向きであった兼実卿とは真逆とも言えるタイプであった。合理性を優先させるタイプの政治家であったのだ。
 頼朝からしたら付き合いやすいのは兼実卿よりも通親であったと思われる。自らの政治的野心のための大姫入内であり、その達成のために兼実卿との関係を打ち切り、代わりに政治的パートナーとして通親を優遇するのである。
 いわゆる「建久七年の政変」と呼ばれる兼実卿の失脚は頼朝の政治的野心と、朝廷内での反兼実卿勢力の台頭によって起きるのである。反兼実卿勢力とは、九条兼実卿の治世の四年間によって生み出されたものでもある。
 九条兼実卿の治世は幼い後鳥羽帝のもとで、まだ生まれたばかりの鎌倉の東国武家政権との共調と提携の中で行われたものである。実の弟の慈円を天台座主に据えて比叡山延暦寺を統制し、歴史上当時としては最大級の戦乱であった源平争乱で荒廃した平安京と南都復興を成し遂げ、何より東大寺復興を成し遂げたのは最大の功績であろうが、朝廷内での「院近臣」(いんのきんしん)を排除する動きで反感を買い、摂関家の氏の長者としてのプライドからの行動が気がつけば敵だらけという状況を招いてしまったのである。
 それでも自らの娘の任子に皇子誕生があれば全て違う結果になったかもしれないが、それが叶わず、兼実卿の失脚へとつながるのである。】 


by hechimayakushi | 2023-09-16 11:07 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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