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へちま薬師日誌

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2024年 01月 01日

私説法然伝105

『私説法然伝』(百五)法然の法難③

 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【久我通親卿亡き後の朝廷は、九条兼実卿の息子で父と共に政界を追われつつも後鳥羽帝の意向もあり左大臣として政界に復帰していた九条良経卿と、九条兼実卿の亡き兄の孫にあたる右大臣の近衛家実卿という若き摂関家の両名が残された。両名とも若く後鳥羽帝に随うものであり、政界の主導権は後鳥羽帝が握ることになった。後鳥羽帝の時代の始まりである。
 後鳥羽帝はすでに土御門天皇に譲位されており、本格的に治天の君として院政を開始する。藤原定家が『明月記』に残したように、その治世は精力的に宮中行事を再興し、朝廷を統率し、まさに治天の君にふさわしいものであった。
 建仁三年(一二〇三年)比企能員の乱が鎌倉で起こると、二代鎌倉殿の頼家は事実上失脚し、その弟が三代鎌倉殿となる。後鳥羽帝自ら「実朝」と名乗らせ、実朝もまた親後鳥羽帝であり、執権北条時政とも良好な関係を築き、政治体制は安定化した。
 後鳥羽帝の治世によって京の都周辺は政治的に安定していたが、政治的に安定するということは、政治以外で何かと騒がしくなるものである。法然上人の周りもそうであり、門弟や信仰者が増えるほど問題は多く大きくなっていったのである。
 法然上人の弟子として、まず比叡山黒谷時代からの兄弟弟子でもあった信空、そして感西がいた。承安五年(一一七五年)の立教開宗以来様々な人々が法然上人の元へ集まるが、文治二年(一一八六年)の大原問答や文治六年(一一九〇年)の東大寺での三部経講説の時期に九条兼実卿の入信や善慧房證空(西山上人)の入門があった。
その後の選択集を撰述する時期までに勢観房源智や聖光房弁長らが入門する。建仁元年(一二〇一年)には後の親鸞聖人となる綽空が入門する。この他にも多数の弟子はいたが、入室の弟子、つまり法然上人と共に生活をしていた直弟子は法然上人の遺言である『没後遺誡文(もつごゆいかいもん)』に記された「但し弟子多しといえども、入室の者僅わずかに七人なり。所謂信空・感西・證空・円親・長尊・感聖・良清なり」とあるようにごく限られたものであった。
 法然上人の弟子と言っても多くは法然上人と共に暮らしていたわけではなく、他所で活動していたのである。
 法然上人のあずかり知らない所で弟子が法然上人の思惑と違う事を言っても、それは法然上人が言った事と同じ扱いになる可能性がある。佛教における師弟関係とは、そのような面があり、法然上人の教団においてもその面から問題は発生したのである。
 元久元年(一二〇四年)法然上人の弟子の言動、おそらくは自分たち他力浄土門こそ正しい教えであり自力聖道門を卑下するようなものであったであろう、そういった言動を問題視した比叡山延暦寺の僧侶が延暦寺の大講堂に集まり天台座主真性に念仏停止を訴えた。元久の法難の始まりである。法難とはインドや中国や朝鮮においての仏教弾圧と排斥の事であり、我が国においては戦乱や政治的な動きによる災難なども含まれるものである。後の日蓮聖人への弾圧や織田信長の比叡山焼き討ちもそうである。
 この動きに対して法然上人は「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)という起請文を作り対応された。これは法然上人が作られた弟子の言動を戒めるものであり、これに弟子が署名することで弟子の勝手な振る舞いを正そうとされたのである。署名した弟子は一九〇名であり、署名は法然上人に近い弟子からされており、善慧房證空(西山上人)はその四番目に名前がある。この七箇条制誡を比叡山延暦寺に送り、九条兼実卿らの取り計らいもあって、比叡山延暦寺側の訴えは何とか収まりそうであったが、問題はまだ終わらなかった。
 法然上人はあくまで比叡山延暦寺の僧侶という「身分」を持っていた。「比叡山黒谷沙門源空」と署名されるように、法然上人はあくまで天台僧であった。なので比叡山延暦寺としても「宗門の中の問題」として納められたのである。そういかないのが南都であった。】
        


by hechimayakushi | 2024-01-01 09:40 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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