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へちま薬師日誌

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2024年 01月 01日

私説法然伝106

『私説法然伝』(百六)法然の法難④

 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄、元久の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【南都最大の勢力であった興福寺は、元久二年(一二〇五年)十月、全ての宗派・宗門による訴えとして念仏停止(ねんぶつちょうじ)を求めた。これは院、つまり後鳥羽帝並びに朝廷への訴えとなるものである。比叡山延暦寺の僧侶の怒りは、あくまで法然上人が天台僧であり、天台宗内部の問題で収まるものであったが、後に「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」と呼ばれる念仏停止の訴えは国家への訴えであり、規模が違うものとなった。
諸説あるが、奏上文の多くは笠置寺の解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)の作文によるものとされる。貞慶はかの信西入道の孫にあたる。つまり法然上人にとって特別な存在であった遊蓮房円照の甥にあたるのである。貞慶は法相宗の学僧であった。祖父の信西入道のごとく、頭脳明晰そのものであったことは奏上文を見れば理解できるのである。
 奏上は九種の失、つまり過失を念仏停止の理由として挙げている。
 新宗を立つる失、新像を図する失、釈尊を軽んずる失、万善を妨ぐる失、霊神に背く失、浄土に暗き失、念仏を誤る失、釈衆を損ずる失、国土を乱る失の九種である。 まず何よりもそもそも朝廷に何の届け出も願い出もなく新宗を建てることは許されないことであると主張されている。
 朝廷への届け出や願い出という点は、当時の時点では新たな宗派が出現することは想定外であったことだろう。南都北嶺の八宗派以外の新たなものが出現することは誰も想像できなかった。法然上人という一人の人間の語る言葉には、それほどの衝撃があったのである。
 その衝撃に対して、いよいよ本気で何とかしなければならないという対応策を迫られたという感がヒシヒシと伝わってくる奏上文である。
 これらの過失はいずれも反論反証できるものであり、すでに法然上人が作られた七箇条制誡で充分対応できるとも考えられるが、大事な点としては興福寺が日本佛教の諸宗派つまり各宗門をまとめて朝廷に対する訴えというところまでいってしまった点である。
 比叡山延暦寺での訴えは、あくまで宗門という組織の中の話であったが、これは公(おおやけ)の問題となったのだ。
 現代で言えば裁判にまでなったようなものであり、それだけ深刻な問題となったことがうかがい知れる。
 しかし法然上人そのものへの批判という性格のものというよりは、法然上人の弟子の不行状を問うものが多く、これは実際にそうであったことで、法然上人の弟子を名乗る者の中に法然上人の教えとは違うことを行うものが多かったからである。
 いわゆる異安心(まちがった他力本願念仏の教えを信じ行動する)の者がおり、問題行動を起こしていたからである。
 法然上人の真意、それは他力本願念仏思想であるが、法然上人の世間的なお姿は戒を保ち、ひたすら称名念佛を行う「聖」(ひじり)として認識されていたのであろう、それを咎める「法」は佛教にも朝廷にもなかった。だが、弟子の事となればそれは通用しない。弟子の不行状は師匠の不始末となるのである。弟子の行いの責任は師匠が問われる事になる。興福寺奏状に対する朝廷の判断はあくまで法然上人の弟子の不行状を認め、あくまで弟子の中に間違った教えを信じる者がいることを咎める判断であった。これは極めて的を得た判断であるが、これにより興福寺側はさらに批判をヒートアップさせていく。
 これは元久二年十月から十二月までの動きである。
 翌年、時代は建永元年(一二〇六年)となるとさらなる急展開が待っていたのである。いわゆる建永の法難の始まりである。
 比叡山延暦寺での訴えや興福寺による法難は、法然上人にとって試練であったかもしれないが、この先に起こる法難はまさに悲劇的なものとなっていくのである。】


by hechimayakushi | 2024-01-01 09:41 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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