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へちま薬師日誌

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2024年 03月 17日

私説法然伝108

『私説法然伝』(百八)法然の法難⑥

 先月号では法然上人の元久の法難から建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建永元年(一二〇六年・元久三年四月に建永に改元された)の夏には興福寺の訴えを三条中納言藤原長兼卿(ふじわらのながかね)が中心メンバーとなって対応策を考え、後鳥羽帝の意向もあり、法然上人の責任は問わず、あくまで弟子の不始末というところで決着をさせた模様である。藤原長兼卿の日記『三長記』にその経緯が記されているが、最終的にどのような決着になったのかは記されていない。しかし法然上人の弟子の法本房行空(ほうほんぼうぎょうくう)という「一念義」という考えの弟子は法然上人によって破門されていることから、行空だけは法然上人の教団にとっても看過できないものがあったとわかる。「一念義」とは「一念往生義」とも言い、おおざっぱに言えば念佛を一念すれば必ず救われるのだから何をやっても良い、という考えである。しかし、これは根本的に間違っていて、我々の一念は往生の要因ではなく阿弥陀佛のはたらきによる往生が確約されているのである。したがって行空はそもそも法然上人の説かれた他力本願念佛を間違えたかたちで理解していた。なので間違った結果となったのである。
 行空の考え方は、阿弥陀佛の他力本願念佛を信じるという点では間違ってはいない。しかし「一念」を二つに区別して浄土に往生することに優劣をつける点や、浄土に往生することが確定しているのだから一念以上の称名念佛は不要であり悪い行いを重ねても問題が無いとする点などは他力本願念佛を読み間違えたものである。法然上人の日々の六万遍とも七万遍とも言われる称名念佛は外向けの「方便」であり、真意は一念義であると主張していたが、法然上人の他力本願念佛とは、阿弥陀佛の本願を知り信じる安心感から、報恩感謝の生き方としての称名念佛を勧めるものであり、完全に行空は間違えた捉え方をしていたのである。
 法然上人が行空を破門したことにより、興福寺の訴えを朝廷が裁定し法然上人もそれに従い行動していたことはうかがい知れる。興福寺が完全に納得したかどうかはともかくとして、朝廷としては「落としどころ」を作って事を荒立てずに解決したかったことは間違いがないであろう。
 行空以外にも興福寺が問題視した弟子がいた。名前を安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)と住蓮房と言い、安楽房は以前に『選択本願念佛集』を作成する際のメンバーの一人であった。もともと朝廷における外記(げき)という文章作成のスペシャリストの実務官僚の家柄の出であり、その能力があったからか執筆者として関わっていたが、慢心があったので法然上人からメンバーを外されたという逸話がある。安楽房は僧侶としての才覚が優れていたようであり、文筆家であるだけでなく声明(お経に節や音程をつけて唱えるもの)も優れていたようである。同じく声明に優れたのが住蓮房である。彼ら二人はその優れた声明で人々を惹きつけ人気があったようである。安楽房と住蓮房が行っていた声明は、現代の西山浄土宗でも伝わりつとめられている善導大師の「六時礼讃」(西山浄土宗勤行式の三尊礼もその一部分)に節をつけて唱えるものであったという。それは当時の人々にとっては画期的な音楽的な美しさのものとして心をとらえたものであった。
 そして建永元年十二月九日、おそらく行空の破門で朝廷と法然上人は興福寺の訴えの落としどころとして決着させることができたのであろう、後鳥羽帝は熊野行幸で不在となり、安楽房と住蓮房の両名は京の都のはずれの鹿ヶ谷の草庵で別時念佛(べつじねんぶつ・期間を定めてひたすら称名念佛を行う行事)において声明の法要をつとめていた。これは現代風に考えれば一種のコンサートやイベントのようなものでもあったであろう、多くの聴衆がかけつけて行われた。その聴衆の中に、後鳥羽帝に仕える女官の姿があった。
 後鳥羽帝が熊野行幸で不在の間に、安楽房と住蓮房の声明を目当てに鹿ヶ谷に訪れたのである。そして女官はその後に出家をしてしまうことになった。】  


by hechimayakushi | 2024-03-17 19:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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