2024年 11月 18日
『私説法然伝』(百十六)再出発② 先月号では法然上人の流罪について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【法然上人が漁師の老夫婦と遊女の友君に伝えたという「お念佛申して、阿弥陀佛の本願を信じる」という言葉、これにはどのような意味があるのかと考えれば法然上人にとっての流罪の意味が明確に浮かび上がってくる。 法然上人は流罪となった時点で明言されていたように、法然上人にとって流罪となることは本当に何の障害となるものではなかったのであろう。「佛法」つまり「阿弥陀佛の本願」だけが七十五歳という当時としては老境となった法然上人にとっての「現実」であったのではないか? 流罪となり罪人「藤井元彦」として四国の地へ流されることも現実であろうが、法然上人にとってはそれは「この世」で起こる因果関係の結果の一つでしかない。「この世」で起こることは、自分自身の行いの結果だけではない、自分以外の人々や自然の行いの結果も関係する、ありとあらゆる因果の結果が「この世」なのである。それには「前世」つまり自分自身では知ることのできない因果関係までも含まれるものである。 私達は「前世」と言うと何か非現実的な霊的なものを想像するが、わかりやすく考えていくと要は過去の因果関係とその結果であり、それは「この世」があり「存在」である時点で全ての存在は何かしらの因果関係とその結果によって成り立っているのである、ということでしかない。 法然上人であろうと漁師の老夫婦であろうと遊女友君であろうと、誰であろうと全て過去の膨大な因果関係の結果に依って存在しているのである。そこには過去の罪と言われる行いやその結果も含まれている。そして現在もまたそうであって、誰もが罪であるとか悪業と言われる因果の結果を持っているのである。 だからこそ、それは「阿弥陀佛の本願」によって救われる「全ての存在」ということになるのである。これは極めて簡単明瞭なものである。阿弥陀佛は全ての存在を救うと誓われて、その誓いを成就されて阿弥陀佛と成られた。それは因果関係の結果である。その因は「救われない存在」が存在するからである。 救われない存在とは阿弥陀佛=佛陀と成れない存在であり、つまり私達であり法然上人であり漁師の老夫婦であり遊女友君であり、皆が皆そうであるのだ。それを凡夫と言い、悪人と言い、衆生と言い、つまりは言葉としては色々あるが因果関係の結果から言えば「佛と成れない存在」ということである。 「佛と成れない存在」である存在は、私達であり法然上人であり漁師の老夫婦であり遊女友君であるわけで、それは皆何かしらの「悪」や「罪」という業の因果関係と結果に依って存在している存在である。法然上人は自分自身がそうであり、九条兼実卿も漁師の老夫婦も遊女友君も、そして我々私達も皆そうであると考えれた。いずれ必ず極楽浄土で再会する、それは皆が「佛と成れない存在」であると同時に「阿弥陀佛によって救われて極楽浄土で佛と成る存在」であるということである。漁師の老夫婦も遊女友君も自分自身の境遇を嘆き救われないと法然上人に問いかけるが、本願によって救われると法然上人が答えるのも同じである。 九条兼実卿の苦しみも、法然上人の流罪の苦しみも、漁師の老夫婦や遊女友君の苦しみも、いずれも現実世界において発生する苦しみであり、それは過去から現在において発生し続ける様々な因果関係の結果である。それが生きているということであり、生きている存在は皆全てそうである。法然上人の流罪の旅路で伝わる話から浮かび上がるのは、それではないか? 佛と私、というのは何か?という答えがこの流罪の旅路で浮かび上がってくる真実であると言えるのではないだろうか? そして法然上人の旅路はまだ始まったばかりなのである。】
by hechimayakushi
| 2024-11-18 21:55
| 私説法然伝
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