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へちま薬師日誌

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2024年 11月 18日

私説法然伝117

『私説法然伝』(百十七)再出発③

 先月号では法然上人の流罪について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【三月十六日、塩飽島(しあくしま・現在の丸亀市)に到着した法然上人は地頭である高階保遠入道西忍(たかしなのやすとおにゅうどうさいにん)の招きでその館に入った。西忍も法然上人の弟子となったと伝わる。西忍は薬湯を用意して法然上人をもてなしたという。法然上人は感激し「極楽も かくやあるらん あら楽し はや参らばや 南無阿弥陀佛」というお歌を残されている。実に素朴であり、何の裏表もない正直なお心を歌われたのであろう。ひょっとしたら法然上人の七十五年の人生の中でも数少ない心から休まることの出来た数日間の塩飽島の滞在だったのではないだろうか?
 その後、法然上人は四国本島へ上陸する。そして流罪地とされた土佐の国へと向かうのだが、陸路で現在の丸亀市(空海生誕地の善通寺があり法然上人の供養塔もある)を経由して小松庄(現まんのう町)で留まられたようである。小松庄は九条家の荘園である。つまり九条兼実卿の最後の心を尽くした配慮であった。小松庄の生福寺(現来迎院法然寺)に十ヶ月ほど滞在され、改元され承元元年(一二〇七年)十一月二十九日後鳥羽帝による最勝四天王院の御堂供養があり、その折に中納言藤原光親(ふじわらのみちちか)の進言により法然上人の大赦が決まり、同年十二月八日正式に法然上人の恩赦の宣旨が下された。入京は許されないが、その罪を許すというものであった。これは九条兼実卿が臨終の際に藤原光親を呼び、後鳥羽帝に進言して欲しいと遺言として託したからである。九条兼実卿は最後まで法然上人を守り通されたのだった。
 法然上人の流罪が十ヶ月で終わった。これは南都北嶺の「弾圧」から始まり、後鳥羽上皇という「治天の君」が「治天の君」としてその権勢を世に示す「政治」として完結した。本当に法然上人とその教えを弾圧するのであれば、十ヶ月という期間は不自然すぎる。あくまで「パフォーマンス」という側面が強い。しかし、政治がどうあれ法然上人はその他力本願念佛という「佛法」で生きられた。それが法然上人の流罪にとっての再出発でもある。】

 法然上人は流罪となられても「他力本願念佛」つまり「佛の願いを知り、佛のはたらきによって救われる」という「佛法」の中で生きられました。流罪の先で出会った人々の悩みと苦しみ、それは自分の力ではどうにもならないものでした。その悩みや苦しみはどうしたら解決できるのか?法然上人のお答えはシンプルです。「他力本願念佛」によって解決される、それだけです。それは阿弥陀佛とは何か?という点であきらかにされた「佛の願いは全ての存在の救済であり、阿弥陀佛のはたらきによって必ず救われる、それは誰もが必ず阿弥陀佛のはたらきによって佛となることができるからである。そのはたらきを南無阿弥陀佛と言う。それを知り理解することで私達もまた南無阿弥陀佛というはたらきとなる」なのです。阿弥陀佛は阿弥陀佛と成られた、それは全ての衆生を救う=西方極楽浄土にて佛となれる「さとり」を完成された佛です。その「パワー」はどんな時代のどんな場所のどんな人にも届く「無限のはたらき」なのです。つまり法然上人であろうが九条兼実卿であろうが遊女であろうが漁師であろうが、一切の差別のないはたらきなのです。これは佛のさとりに共通する「無分別」(むふんべつ)の「パワー」です。それを細かくは「智慧と慈悲」と言い、それを「本願」とも「弘願」とも言います。これらはさとりなので私達には直接認識や認知ができません。なので「南無阿弥陀佛」という六字名号という文字として私達にさとりを示されています。南無阿弥陀佛とは呪文ではなく、佛のさとりである「願い」と「さとり=はたらき」なのです。全ての人々はさとりによりさとった佛となる。その佛もまた阿弥陀佛と同じさとりの「パワー」を持ちます。だから南無阿弥陀佛は阿弥陀佛であり私達もまた南無阿弥陀佛となるのです。これが「救い」であり、「救い」は全ての存在には差別が無いことを証明するものです。法然上人はそれを人々に伝えられたのです。     


by hechimayakushi | 2024-11-18 21:57 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)


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